『八日目の蝉』角田光代(書評)
【4月7日特記】 角田光代の作品では直木賞受賞作の『対岸の彼女』を読んだ。凝った作りのとても面白い小説だった。にも関わらず、どこか僕好みの範疇に入って来ないところがあって、『情熱大陸』のHP上で展開されたいくつかの短編を除けば、その後1作も読んでいない。
この『対岸の彼女』は WOWOW でドラマ化された。これを観たのも原作が好きだったからではなく、出演者のひとりである多部未華子が見たかったからだ。平山秀幸が監督を務めていて、これまた非常に出来が良かった。
そして、今度は映画『八日目の蝉』の予告編が始まった。これまた好きな永作博美が出ているので観たいと思った。そして、本屋で見て久しぶりに読んでみようか、映画の前に読んでおこうかという気になったのである。
6年ぶりの角田作品は(と言っても書かれたのは直木賞の2年後なのだが)、あれ、この人、こんな巧い作家だったかなというのが第一印象だった。
もう少しあざとくて、読んでいると時々引っ掛かってしまう作家という印象があったのだが、わずか2年間で文章もストーリーもこんなに滑らかに書ける人になったのか、という気がしたのだが、それは単に僕が『対岸の彼女』の時に見抜けなかっただけなのかもしれない。
で、映画の予告編を見て想像していたのと少し印象が違った。
映画では希和子を永作博美が、希和子に誘拐された娘・恵里菜の成人後を井上真央が演じている。この2人の絡みのシーンって予告編になかっただろうか? 編集でそれぞれのシーンが交互に出てきただけなのか、2ショットのシーンがあったのか、考えてみれば記憶が定かでないのだが、当然2人が激しく絡む映画だと思っていた。ところが、小説ではこの2人が絡むシーンがほとんどないのである。
小説の半分以上を占める第1章は、希和子が赤ちゃんを盗むところから始まる長い長い逃避行である。親友の家。得体のしれない婆さんの家。宗教団体のような、女ばかりが共同生活を送る宿舎、そして小豆島。
──希和子は子供を連れて転々とする。すんでのところでいつも逃げる。そして捕まる。随分起伏に飛んだドラマがあるが、希和子が逮捕された時、彼女が薫と名付けた娘・恵里菜はまだ幼児である。
そして、第2章は成人した恵里菜が物語を語って行く。そこに、かつて同じ組織で集団生活を送っていた千草という娘が現れる。これが多分映画では小池栄子がやっている役だと思う。
ネタバレを避けるために書かないが、第2章も結構重い話である。誘拐から解放された恵里菜は決して幸せに育ってはいなかった。心に大きな傷を抱えていたのである。
却々緻密に組み立てられた設定である。進行もとても巧みで、読む者の気を逸らせない。タイトルの付け方、そして、そのタイトルへと繋がるエピソードの入れ込み方も見事である。そして、余韻がある。深い深い余韻がある。
『対岸の彼女』は交換可能性のドラマであったと思う。いじめる側といじめられる側が、ちょっとしたことで入れ替わってしまっても何の不思議もないのだというドラマだったと思う。それが、この小説では「繰り返す」というテーマに収束しているような気がする。ま、あまり書くと面白くなくなるのでこの辺で留めておこう。
巻末にある池澤夏樹の「解題」を読んで初めて気づいたことがある。
それは、そもそもこの小説では登場する男性の数が少ないが、出てくる男が皆どうしようもないほど頼りがいのない、嫌なことからただ逃げようとするだけの男だということである。こういう男の存在によって、女たちが「繰り返す」ことになる。それは悲しいこと。でも、繰り返すことによって単なる憎しみから痛みの共有へと変って行く。
悲惨な話を書きながら、作者の温かみがしっかりと伝わってくる作品である。
Comments