映画『八日目の蝉』
【4月29日特記】 映画『八日目の蝉』を観てきた。角田光代の原作のほうは、僕としては珍しいパタンなのだが、映画の宣伝が出始めてから文庫で読んだ。
だから、いつも原作についてはほとんど憶えていない僕が今回はいろんなことを憶えていて、これはこれで原作との細かい違いが気になって具合が悪い。自分がどう受け取ったかという感触も残っているので、なおさら違和感が際立ってくる。
例えば、希和子(永作博美)が恵理菜を誘拐したのが雨の日になっているが、原作に天候についての記述はない。雨と書いていない限り雨ではないのではないか? それを敢えて雨の日と設定するのは何故なのか? どうも腑に落ちない。何故なら僕は晴れ渡った空を思い浮かべて読んでいたから。
晴れの日に赤ん坊を連れて歩き去るのと、降りしきる雨の中を抱きかかえて逃走するのとではシーンのニュアンスがかなり違ってくるではないか。
それに子供を盗まれた側の秋山夫妻(田中哲司と森口瑤子)の暮らしも随分裕福に描かれていると思った。ガレージ付きの一戸建てである。原作の秋山はもう少しショボい感じのサラリーマンではなかったか? 僕は小さなマンションと貸し駐車場のイメージでいた。
他にも細かいところで原作との、あるいは原作から僕が受けたイメージとの食い違いがある。それは単に読む者の感性の差という面もあるだろうが、映画化するに当たって意図的に書き換えられた部分もある。
長編小説を2時間内外の映画にするためにはどうしてもどこかを切らなければならない。そして、どこかを切り落としただけで辻褄が合うはずがなく、そのほかにもどんどん設定や進行を触って行かなければならない。それは当たり前のことだ。
しかし、どこを切ってどう触って行くかというところで、どうしても読者と映画作家との間にズレが生じてしまう。そのズレを快く思うかどうかということが、結局映画の評価そのものになってしまったりもするので要注意である。言わば読者と監督の双方が読解力を試されているのである。
例えば原作にあった恵理菜の妹は映画の中では存在しない。この部分の削除は僕も至極妥当だと思う。「エンジェルホーム」での暮らしも、見ていて感心するくらい見事に間引かれて組み替えられていた。だが、しかし、冒頭に書いたような、晴れなのか雨なのかといったことがものすごく引っかかったりするのである。
そういう観点で見ていると、この映画は気になるところの多い、逆に言うと、かなり意欲的に原作に手を入れた作品である。シーンも台詞もオリジナルなものが多かったと思う。
それは映画のカラーであり姿勢であるのでそのこと自体が悪いと言う気はない。ただ、全般的に少しくどい感じはした。蝉についての会話も3回出てきた。ダメを押すような台詞も多かった。
原作と違って冒頭は法廷での証言シーンという形でいろんなことをざーっと説明してしまう。映画にする上では原作のように希和子の逃避行をじっくり描く余地はないので、これも賢い手法なのだが、求刑のシーンで秋山の妻が「あんたなんか死ねばいい」と叫ぶシーンが加えられるなど、秋山の妻はかなり下世話な感じで描かれる。そういうところも含めて少しくどい作りだと思うのである。
そういうのがこの監督・脚本家の解釈なのかなと思う。そして、監督・脚本家は観客のリテラシー・レベルをその程度にしか見ていないのかなという気もする。あるいはそういう描き方のほうが観客には分かりやすいのかもしれない。だが、僕は少しくらい難解になっても、観客が読解力を試されるくらいのほうが好きだ。
──などといろんなことを気にしながら見ていたのであるが、この映画の真骨頂は舞台を小豆島に移してからの後半部分にあった。原作よりも遥かに多くの時間をこのパートに割いている。
そして、今まであまり自己主張して来なかったカメラが活発に動き出す。自然の大きな営みを捉え、家並みの佇まいを映し、人物の表情をクローズアップで収める。大俯瞰から目の高さのアングルへの切り替え、ズームアウトしながらのドリーインなど、人と風景とカメラが有機的に絡み出す。
後から気がついたのだが、原作の小説では第1章が恵理菜(薫)を誘拐した希和子の逃避行、第2章が成人した恵理菜とルポライター千草の話ときっちり分かれていたものを、映画では2つの時間軸を交互にカットバックして行く。その結果何が起こるかと言えば、第1章と第2章のクライマックスが同時に来るのである。
とても巧い構成である。『お引越し』、『しゃべれども しゃべれども』、『サマーウォーズ』、『パーマネント野ばら』などを手がけた奥寺佐渡子による、とてもよく練られた脚本である。
そして最後の最後(本で言えば第2章の最後)になって、映画は原作に果敢に筆を入れてくる。新しいシーン、新しい台詞。
これらの意欲的な取り組みがものの見事に功を奏しているのを見て、結局僕は脱帽した。この映画は成功である。
成島出監督の作品を観るのははこれが初めてであったのだが、ぴあフィルムフェスティバルに入選した後すぐにデビューせずに、森崎東、長谷川和彦、相米慎二、平山秀幸ら錚々たる監督の下で助監督を務めた後、まずは脚本家としてデビューした人だとのこと。その経歴を物語るような良い映画、良い監督だと思った。
キャストも全般に成功だったと思う。
僕の場合は映画で永作が希和子を、井上真央が恵理菜(薫)を演じると知ってから原作を読んだので、この2人には全く違和感がなかったのだが、驚くべきは千草を演じた小池栄子である。
こういうおどおどした感じは僕は小説からは読み取れなかった。しかし、それは見事にリアリティのある千草像だった。千草が自分の正体を恵理菜に明かすタイミングを原作よりも少し後ろにずらしたのも非常に良いアレンジだったと思う。
そして、幼い薫(恵理菜)役の渡邉このみが、可愛い上にとても良い演技をしている。
男優陣では恵理菜の父と恋人である2人の男性を演じた田中哲司と劇団ひとりがまさに嵌まり役だった。ともに不倫をしてともに逃げてばかりのダメな男の感じがよーく出ていた。
そして、誰よりも、原作ではほとんど台詞もなかった小豆島の写真館の親父に扮した田中泯がすごかった。怪演と言って良い。そして、彼を軸にして、映画用に書き換え書き加えられた最後のシーンが本当に良かったと思う。このために映画の尺は少し長くなってしまったが、それだけの意味はあったと思う。
今回は長文になったのであらすじについてはほとんど割愛してしまったが、原作を読んだ人も読んでいない人も、いずれも観て満足の行く作品なのではないかと思う。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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