『水死』大江健三郎(書評)
【3月4日特記】 他の人はどうなのか知らないが、軽い本が何冊か続くと、僕は時々途轍もなく重い本を読みたくなる。そんな時に手に取るのが例えば大江健三郎だ。
おしなべて重い。そして難渋する。そもそも重いものを求めて読んでいるのだからそれで良いのだが、それにしても重苦しい。引用される文言や背景にある思想が、僕にとっては馴染みがなく、そしてものすごく高尚で難しい。だから読むのがとてもしんどい。
──それが僕がこれまでに知っていた大江健三郎像である。ところが、この本は違うのである。もちろん軽くはない。しかし、それほど重くもない。そして、何よりもすらすらと読める。こんなに読み易い大江健三郎は初めてである。
一体いつの間に大江健三郎はこんなに大衆的(と言っても前との比較の話であり、依然大多数の大衆はそっぽを向いているだろうが)な作家になったのだろう。
いや、それよりも、僕が最後に大江健三郎を読んだのはいつだったのだろう。もう何年大江健三郎を読んでいないのだろう。全く思い出せない。しかし、その間に大江健三郎が豹変したとは考えにくい。
僕が変わったのだろうか? 僕が大江健三郎の高みに達したのだろうか? まさか、そんなはずはない。
しかし、どこかしら僕が、大江健三郎が長年抱えてきた重苦しい何かを、感覚的に理解できる年代に達してきたのかもしれない。──そんなことを考えながら読んだ。
主人公の名前を別にすれば、これはいつもの大江健三郎の自伝的な作品である。
出身地である四国の「森の家」が出てくる。障害者で音楽家の息子も出てくる。そして、この作家が書いたものとして大江健三郎がかつて書いた作品もたくさん出てくる。そのうちの『みずから我が涙をぬぐいたまう日』は重要な作品として出てくる。
主人公の作家の名前は今回は長江古義人である。この古義人が「我思う故に我あり= Cogito, ergo sum」のコギトであることくらいは僕にも解る。息子の名前は今回はアカリである。
長江は独りっきりで蹶起しようとして水死した父親の幻影に悩まされて、齢七十を過ぎ、死んだ父よりも20歳も年を取って初めて、言わばその総決算として「水死小説」を書こうとする。それはその小説を書くことを押しとどめていた母が亡くなって10年が過ぎたからである。
ところが、父の死の謎を解き明かす鍵であると思われた赤革のトランクを開けてみて、長江は何も書けないことに気づく。
その前後から劇団「穴居人(ザ・ケイヴ・マン)」の中心的な女優ウナイコが絡んできて、長江とアカリ、そして劇団の連中と一緒に「森の家」で暮らすようになる。ウナイコはまず『死んだ犬を投げる』を上演して成功を収め、次いで『メイスケ母出陣』の舞台化に取り掛かるが、保守的で閉鎖的な地元民の強硬な反対に遭う。
──などという風に、今回は筋がトントンと進んで行く。大江健三郎っていつもこうだったっけ、とまた立ち止まってしまう。僕の記憶ではもっと観念的な作風だったと思う。いや、記憶違いなのだろうか? 今までの作品も、観念的な表層の下では、随分速い流れを形成していたのかもしれないという気もしないでもない。
結局僕が変わったのか大江健三郎が変わったのか解らない。ただひとつ言えることは、この小説はすらすら読めて、そしてとても面白い。変わらないのはテーマが重いということだけである。
「初めて読む人にも、もう一度読んでみたい人にも、新しい Oe がここにある」──帯の宣伝文句がこんなにも正確に本の内容を表しているのは珍しいことである。
初めての人も、何度も読んだ人も読めば良い。しっかりと形のある感動が残るだろう。
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