東の人、西の人
【3月28日特記】 今日 twitter で「東日本の人と西日本の人が書いている内容が随分違ってきているような気がする」と書いている人がいた。そして、その呟きを retweet している人もいた。
そうとあからさまには書いていなかったが、「西の奴らは呑気なもんだ」というニュアンスが滲み出していた。
ま、解らんではない。そういう風に感じるものだ。
阪神淡路大震災の時などは、僕らは東日本はおろか武庫川より東側の人たちに謂れのない怒りを覚えた(ご存じない方のために書くと、武庫川より西側は街がぐちゃぐちゃに潰れてしまったが、武庫川東岸は全般に建物への影響も軽微で、割合普通の暮らしが営まれていた)。
幸か不幸か僕らの会社は放送局だった。僕らの報道スタッフは被災者でもあった。そこへ東京キー局から応援部隊がやってきて、その意識の違いに現場は苛立った。ついにウチのニュース・センター長が「お前らには神戸の気持ちは解らない。東京へ帰れ!」と一喝する事件が起きた。
挙げようと思えばもっと他にもいろんな例があるが、そういういろんなことを思い出すと「西日本の人は」と言いたくなる気持ちもよく解る。
しかし、今回はあの時とは少し違う。
まず僕らには大震災の経験がある。東の人に憤った経験もある。単に気持ちが分かるということではない。知識の蓄積がある。こうすれば良いのではないかとアドバイスできる部分もある。アドバイスしてあげたいという気持ちもある。
16年前の大災害をきっかけとした日本人全体の意識の変化もある(確か「ボランティア元年」などと言われたはずだ)。募金もボランティアも昔とは桁違いに増えているはずだ。そして、みんながともかく被災地のことを考えている。
また、仙台には前回の宮城沖地震の経験者もいるだろう。不幸にして何度も大災害に遭遇した人もいれば、毎回うまく免れた人もいるだろう。ただ、いずれにしても知識や共感の積み重ねがある。
だが、未曽有の津波だった。この経験はなかった。そして、原発事故の経験もなかった。
そう、それほど単純ではないのである。いろんな要素があって、それが複雑に作用しあって入り組んでいる。
西と東という風に単純に切り分けられるものでもない。同じ「被災者」でも人によって物理的/精神的に受けた傷の深さには天と地ほどの差がある。
それを「西の奴らは」などと言われると、「ちょ、ちょっと待ってくれ。お願いだからそんな単純な二元論で判断しないでくれ。ものごとはもっと複雑で、変数はもっと多い」と言いたくなる。
どうしても図式的に捉えたいのであれば m元n次の複雑極まる連立方程式を書いてもらうしかないのである。
人はピンチに立たされると、とかく単純明快な二元論に縋りつきたくなる。しかし、それは間違いである。
逆に言うと、世の中が単純に説明できるような気がするときは、その世の中は危ういということだ。
呑気に見えるかもしれない。が、そう呑気ではない。仲間じゃないと思うかもしれないが、意外に仲間であるつもりである。
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