見合いの場
【2月24日特記】 このごろ、見合い結婚も良いのかもしれない、と思い直し始めている。
若い頃の僕は見合いなどというものにはかなり抵抗があった。
それは、「愛を貫いて結婚に至るのが本筋ではないか」という、純粋潔癖な若者らしい思い込みもあるのだが、男と女が初対面から結婚を意識しているという変な構図に違和感があったということでもある。
僕自身も結婚が遅かったので、周りにそれをなんとかしてあげなければと思う人もいて、そんなに堅苦しい形のものではなかったが、2度ほど見合いらしきことをした記憶がある。
そのうちの1回は待合せ場所で顔を合わせるや否や、開口一番「私、結婚なんかするつもりないですから」と宣告されるという、非常に腹立たしいものだった(笑)
もう1回のほうも、こちらは2人の「大人」を交えて会ったのだが、いずれにしても違和感一杯の食事会だった。
しかし、そういう経験を持ちながら、最近見合い結婚も良いかも、と思い始めているのである。
見合いは、日常生活の中で相応しい相手を見つけられない人が、そういう相手を見いだすための手段だ──などと言うと気を悪くする人もいるだろうが、要するに僕はたまたま日常生活の中で伴侶を見出したというだけのことで、別に僕が偉い訳ではない(幸運ではあったかもしれないが)。
世の中いろんな事情で、日常生活の中で相応しい相手を見つけるのが困難という人もいるだろう。ならば、そういう人のために見合いという場があっても良いのではないかと思うのである。
会っていきなり結婚相手として適当かどうかを見極めるなんて…、と思っていたのだが、考えてみれば何もその日その場で結論を出すのではないのだ(まあ、出しても良いけど)。
とりあえず決めるのは、次にもう一回会うかどうか、次の一歩を踏み出すかどうかである。そうやって段階を踏んで確かめて行けば良いのである。
僕はこのシステムは twitter に非常によく似ていると思う。フォローするかどうかは、相手の一粒一粒の tweet とお互いに交わした mention を読み返して吟味しながら決めて行けば良いのである。
ソーシャル・ネットワークというのはあくまで実生活上の知人をネットワークで結ぶものであって、そういう意味では facebook はソーシャル・ネットワークだが、twitter は断じてそうではない、と主張している人たちがいる。
それは単に分類上のことなので、まあ、人によってあまりにバラバラにさえならなければそれで良いのだが、facebook とtwitter にそういう分明な違いがあるのは間違いない。
思えば facebook には結婚生活のような趣がある。となると、twitter は見合いかと思うのである。それもめちゃくちゃに入り乱れての、出入り自由な集団見合いである。
facebook では実際に知っている人としか「友達」にならないようにとされているが、僕は twitter上では大変親しくしているが実は一度も会ったことのない人とも facebook で「友達」になっている。
そして、twitter では全く相手を知らない、ゼロの地点から始めて、いつしか親しくなった人がたくさんいる。
twitter を始めてからなおさら、僕は「見合いというのもアリだなあ」と思い始めたのである。
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