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Monday, January 17, 2011

映画『ソーシャル・ネットワーク』追記

【1月17日追記】 昨日映画『ソーシャル・ネットワーク』を観て記事を書いたと思ったら、タイミングよく今日、ゴールデン・グローブ賞で同作が作品賞、監督賞、脚本賞、作曲賞の4部門を獲ったというニュースが飛び込んできた。

良い映画であるとは思ったが、ふーん、アメリカではそこまで高い評価を得ていたのかとちょっと驚いた。この作品が「正当に」評価されるところが如何にもアメリカらしい気がする。日本ではそこまでの評価は得られないだろう。

twitter 上のことだからジョークのつもりで書いたのだろうけれど、日本では「この映画は、友だちが少ない奴が友だち同士を結びつけるサービスを開設したら結局もっと友だちを失いましたと、いう話である」などという言説も見られた。

もちろんユーモアのつもりで書いているのだろう。しかし、こういう見方って非常に日本っぽい感じがする。アメリカでは、一方で「飛んでもない奴だ」と言いながら、他方でもっと好意を以て迎えている面があるのではないかという気がしてならない。

いや、根拠はない。僕が勝手にそんな気がしているだけなのかもしれない。むしろ上記の悪口はアメリカ人こそが言いそうなジョークなのかもしれない。しかし、その真偽を証明する方法がないので、ここではこの僕の直感があながち外れたものではないという前提でもう少し論を進めさせてほしい。

日本では感じ方がそういう風に一方向に偏りがちなのは、物語にすぐに教訓を求めてしまいがちだという傾向に起因するのではないかと思う。

それは僕がホームページに「『国語』が問うもの、『国語』が問われるもの」というタイトルで書いたように、すぐに「この物語で作者が一番言いたかったことは何か」という発想をしてしまうからではないかと思うのである。

あたかも全ての物語は作者が伝えたいたったひとつの単純明快な理念に衣を着せて作られるものであるかのように。

たったひとつのことだけを読み取ろうとするなら、「マーク・ザッカーバーグって飛んでもない奴だ」というのが結論になってもそれほどの不思議はない。

しかし、全ての物語は、映画は、芸術は、表現というものは、決してそんな単純なものではないのである。それを単純化するスキルを涵養することに血道を上げてきた日本の国語教育の歪みこそが、そういう感じ方をもたらすのではないかという気がするのである。少し大げさかもしれないが。

芸術も科学も、複雑なものを複雑なまま、全体像をうまく伝えることがその仕事なのではないかと思う。この映画はそれがうまくできていると思った。そして、今度はそれをちゃんと読み取るのが観客の仕事である。

世の中は、人間社会は、あるいはそれぞれの人間の人生は、決して単色ではない。まだらである。時と共に移ろうものである。そして濃淡がある。

うん、「濃淡」って非常に日本語らしい良い表現だと思う。その「濃淡」を必死になって塗りつぶしてきたのが日本の国語教育だったりはしないだろうか?

マーク・ザッカーバーグって、ド派手な色に塗られたキャラクターではあるが、彼もまた単色ではなく、まだらで、時と共に色合いが移ろい、そして濃淡が出る人物である。それがうまく描かれた映画であると思った。そして、それをうまく読み取った審査員が賞を贈ったのではないかと思うのである。

だとしたら、アメリカは非常に良い国であるということになる。あるいは、僕がアメリカかぶれしているだけなのかもしれないが。

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