映画『アブラクサスの祭』
【1月9日特記】 映画『アブラクサスの祭』を観てきた。
僕は大体監督で映画を選んでいるが、今回はそうではない。単に予告編に惹かれたのだ。
予備知識は全くなかった。玄侑宗久なんて、名前だけは知っていたけど、読んだこともない。スネオヘアーのファンでもない(1曲だけ持ってるけど)。
ただ予告編に惹かれたのである。
後から調べると、監督の加藤直輝は東京藝大大学院映像研究科監督領域の1期生で、黒沢清や北野武の教えを受けたと言う。
なるほど、そう言われればそういう匂いがする。黒沢清や北野武よりはずっと明るくて素直な感じはするが、小細工しない感じが似ている気がする。そう、下手な細工のない良い映画だった。
舞台は東北のどこか。一番近い都会が郡山という立地の小さな街である。昔ロック・ミュージシャンだった鬱病治療中の僧侶がそこでもう一度ライブをやる──それだけの話である。
あまりにも(日本語で言うところの)ナイーヴで、純粋であるがゆえに不器用で、僧侶のお勤めはおろか生きて行くことにさえ困難を覚える浄念和尚に扮しているのは歌手のスネオヘアー(=渡辺健二によるひとりプロジェクト名)である。
これが演技初体験かと思いきや何本かの映画に出た経験があるようだ。
この映画は伝わらない人には全く伝わらない映画だと思う。書いた人も映画にした人も恐らくそれで良いと思っている。いや、良いとか悪いとかではなく、恐らくそういうものだと承知している。
だから衒いがない。受けよう引き込もうという衒いがないので、変に力が入っていないし、余計な一歩を踏み出してもいない。
この映画には象徴的な、叡智のような台詞がたくさん出てくる。「何かがシンクロするようじゃなきゃライブなんてやっても意味がない」というのがその一例である(これは原作にもあった台詞らしい)。
その外にも意味深長と言うか、深い趣のある言葉がたくさん出てくる。その多くは仏教的な出典なのかもしれないが、映画を観ている者にとってはしっかりと現代を生きる者の心に語りかけることばになっている。
監督は、そういう良い台詞と小さなエピソードを丹念に繋げて、丁寧に物語を綴って行く。
非常に印象的だった鏡のシーンを除けば、映像的な仕掛けも多くない。画で唸らせようなんて魂胆もないのである(ただし、カットは頻繁に切り替わる)。
この手の映画は誰が考えても最後のライブのシーンがクライマックスになる。『ソラニン』だって『僕らのワンダフルデイズ』だって『少年メリケンサック』だってみんなそうだ。
しかし、心配はない。何せ元ロック・ミュージシャン(g & vo)を演じているのはスネオヘアーなのだ(宮崎あおいではないw)。
いや、むしろ僕は(「ノイズ」というキーワードが共通しているからなのか)、『エリ・エリ レマ サバクタニ』を思い出した。
この映画自体が、ある人にとってはノイズでしかないのだろう。
そんな中で、僕にはこの映画がちゃんと音楽に聞こえた。
いや、音楽を聴き取れたから良い映画だと言うのではない。ある人にはノイズに、ある人にはサウンドに、あるがままに語りかけるケレン味のなさに惹かれるのである。
主人公の僧侶が「分かりません」を連発するところに却って説得力があり、共感を覚えた。
スネオヘアーが良い味を出していた。僧侶を支える妻役のともさかりえと住職役の小林薫も良かったが、ひときわ目だったのは住職の妻役の本上まなみの、力の抜けた不思議な存在感であった。
流れてきた音楽に耳を澄ませてみるような気持ちで観れば良い映画なのではないだろうか。エンディングの『ハレルヤ』(レナード・コーエンのカバー)も絶品である。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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