『街場のメディア論』内田樹(書評)
【12月1日特記】 僕が初めて内田樹を読んだのはいつのことだったか。そして、あれから彼の著作を何作読んだことか。
あの頃の彼はまだ一部の読書家が密かに愛好するちょっと変わった物書きにすぎなかった。そして当時彼は自分が如何に貧乏な学者かということを、いや、実際には食うや食わずということでもなかったんだろうけれど、本を書いて手に入れたお金なんてちょっと本を買ったらすぐになくなってしまうということを切々と書き綴っていた記憶がある。
その彼が、ここのところ出す本出す本が悉く評判になり売れるようになって、今はどういう気持ちで書いているのかなと、僕なんぞはついついお節介なことを考えたりするのである。
特に今回は、彼個別のケースとは逆に、世の中全体としては本が売れなくなってしまった──それは何故か、ということをテーマとして含んでいるのである。これは極めて皮肉であり、ある意味内田的なテーマであるとも言える。
僕は生来マイナー指向の、と言うか、人によっては「ひねくれた」と言われる読者で、「売れてくると嫌になる」傾向がある。しかし、こと内田に対しては全くそういうことにはならない。何故かと言えばそれはとても簡単なことで、つまり、何度読んでも面白いからである。
どこがどう面白いかと言えば、ひとつには我々が却々気づかなかったりついつい見落としてしまったりする切り口であり発想であり、そしてもうひとつは揺るがない論理性と穏当な妥当性によるものである。
もちろん彼は超人ではなく、その述べるところは必ずしも磐石でも完璧でもない。
例えば、新聞社とテレビ局は系列関係にあるので、新聞が「身内」のメディアであるテレビ局を批判しにくいという指摘(50ページ)は、テレビ局に身を置く僕に言わせると、ある系列に於いては少しは成り立つかもしれないが、ある系列に於いては全くそういうことはないし、僕自身としては逆に「(新聞を含めて)紙媒体の人たちはどうしてそんなに放送局を叩くのが好きなんだろ?」という印象を肌で感じている。
それはテレビ局や新聞社の外側にいる内田が書くのであるから、当然中にいる僕とは感じ方が違うわけだし、書いていることに少々間違いがあっても仕方がない。しかし、外側の人間が外側から書くからこそ見えてくる大きなものがあるのであって、僕らがそれに対して小さな論点で反論を試みることは全く意味がないのである。
紙の本よりも電子書籍が劣っているのは、それを書棚に並べて自分や他人に見せびらかすことができないので、自我の幻想的な根拠を構成することも他人の欲望を喚起することもできないという指摘(161ページ)についても、今はネット上にバーチャルな書棚を形成してそれを補完するサイトがあるのだと一言言い返すことが可能であるが、それも同じように意味のない小さい反論にしかならない。
「あまりに多くの要素が関与しているという事実が、テレビをビッグビジネスたらしめており、同時にそれがテレビの本態的な脆弱性かたちづくってもいる。問題はテレビメディアの当事者たちに、この巨大メディアの『本態的な弱さ』についての自覚が希薄なようにみえること」(46ページ)
「『なぜ、自分は判断を誤ったのか』を簡潔かつロジカルに言える知性がもっとも良質な知性である」(84ページ)
「メディア独自の個性的でかつ射程のひろい見識に触れて、一気に世界の見通しがよくなった、というようなこと(中略)が無理ならせめて、複雑な事象を複雑なまま提示するというくらいの気概は示してもよいと思う」(195ページ)
──いちいち面白い。そして、結構「痛いところ」を突いてきている。
結局最後は贈与経済論になり、何かを手にした者がそれに対する「反対給付義務」を感じたとき、もっと平たく言うと「ありがとう」の気持ちが生じたときに、初めて贈与のサイクルは起動するのだ、という指摘に繋がる。
これは一見若いころにマルクスを読んだ人の分析とは思えない指摘である。しかし、そこにこそ鍵があるのである。──なんでもかんでもを価値論の内側で語らないこと、メディアをビジネスモデルの構図の泥沼から引き上げることこそがメディアが生き残る道なのである。
僕自身に反省はあっても、大きな反論はない。現に僕自身がビジネスモデルからはみ出たところで内田の書籍を買い求め、読んで、何とかしなければと考え始めたりしているのだから。
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