『日本語 語感の辞典』中村明(書評)
【12月16日特記】 収録語数は約1万語──国語の辞書としては如何にも貧弱である。にも拘わらず僕がこれを買い入れたのは、この辞書を引こうと思ったからではなく、これを読もうと思ったからである。直感的に、これは読んで面白い本だろうという気がしたからである。
言葉というものは、ひたすら実用を追い求めていると実はあまり身につかないものである。必要なときに必要な意味を確かめるのではなく、ただ何の必要もなくそぞろ読むのが多分この本の正しい使い方なのではないかと思ったのである。
果たして現物が届いて座右に置いてみると、思ったよりも引き甲斐のある辞書ではないか。考えて見ればそりゃそうである。一口に1万語と言ってしまうと少ないように思えても、類義語がない単語は最初から除外される訳で、ニュアンスに迷う例は意外に網羅されているのである。
例えば「アメリカをはじめ、イギリスやフランスなど多くの先進国が」などという場合の「はじめ」であるが、僕はいつも「初め」なのか「始め」なのか迷った挙句平仮名で「はじめ」と書いていた。試しにこれを引いてみると、「初め」は時に関する静的なイメージ、「始め」は事に関する動的なイメージという解説がそれぞれにあり、上記例文のような用法は「始め」の項に含めた上で、「いくつかのうちの主なものをさす用法では仮名書きが多い」と書いてある。
なあんだ、これで良かったんじゃないか、となる。
例えば「解き放す」と書いていて、あれ?「解き放つ」が正しいのか?などと考え始めると解らなくなってしまうことがある。試しにこの2つを引いてみると、基本的に同じ意味で、どちらも間違いではないが、「『解き放つ』のほうがやや古風で大げさな感じがある」とある。
なあんだ、どっちでも良かったんじゃないか、となる。
そういう風に引くと時々そういうヒットに出くわす。ただ、毎回ではない。あれ?載ってない、ということも決して少なくない。それで良いのではないだろうか。やっぱり僕は座右においてそぞろ読み、である。
近頃こういう言葉の微妙なあやと言うかニュアンスと言うか、そういうものの違いを嗅ぎ分けられるかどうか以前に、そういう細かいことに全く何の興味のない人ばかりになってきて、僕としては心底淋しい限りであったのだが、そんな中この本とは良いお友だちになれそうな気がする。そう、先生ではなく良いお友だち──これはそういう辞書である。
ちなみに、上記の「言葉のあや」の「あや」の漢字として「文」「綾」「彩」のどれが適切なのかはこの辞書には載っていない。
別に嘆くことはない。他を当たれば良いのである。いろんなところを当たれば当たるほど、いろんなことが身についてくるはずである。これはそういう書物である。
そして、所詮そういう網羅性にやや欠ける書物であるということを認めた上で、この辞書を編んだ中村明氏のご苦労に思いを馳せると頭が下がる思いである。
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