『オラクル・ナイト』ポール・オースター(書評)
【11月10日特記】 ポール・オースターを読み始めるといつも途中で、「あれ、オースターってこんなにストーリーが面白い作家だったっけ?」と思ってしまう。
それは多分デビュー作の『孤独の発明』や2作目の『ガラスの街』(もっとも僕が読んだのは柴田元幸訳の『ガラスの街』ではなく、山本楡美子・郷原宏訳の『シティ・オブ・グラス』だったが)あたりの作品の「観念的な」印象が強いからである。
「観念的な」と言うのは、もちろん文体のこともあるが、必ずしも扱うネタが写実的・日常的ではないということである。
彼の作品には必ず少し幻想的・非日常的な影が差している。空想小説と言うまでのことはないのだが、何か少し不思議なことが起こるのである。そして、そこがオースターの巧さであると言えるのだが、読者はそれを決して「そんな馬鹿な」という感じで受け止めたりはしないのである。読者は素直に「ああ、不思議なこともあるもんだ」と感じてしまう。
そして、オースターは実はとてもストーリー回しの巧い作家でもある。この小説の主人公の作家シドニー・オアとは違って実際にいくつか映画の仕事もしているということが関係あるのかないのか判らないが、終盤に急展開してたくさんのいろんなことが畳み掛けるように起こって来るさまは正に映画的である。
こういうことを僕らは読みながら思い出すのである。──ああ、そうだった、ちょっと観念的な印象はあるけど、実は稀代のストーリー・テラーだったんだ、この作家は、と。
また、今回の作品は非常に入り組んでいる。死に至る病から奇跡的に回復した主人公の話を一番外側にして、作中作がいくつも入れ子になっているのである。
小説内小説の最たるものと言えば、僕はジョン・アーヴィングが『ガープの世界』の中で披露した『ベンセンヘイバーの世界』だと思うのだが、オースターのこの小説の中で、シドニーが不思議な中国人M.R.チャンの文具店で買った青いノートに書きつける作中作は、もっと断片的で、それ故に読んでいる者の空想が広がる。
そしてその、「電話帳図書館」をめぐる作中作の中に、主人公の編集者に送られてくる『オラクル・ナイト』という小説の原稿があり、さらにシドニーが金のために書いた(けれども採用されなかった)タイムトラベラーものの映画脚本があり、そしてさらにシドニーの年長の友人であり名のある作家でもあるジョン・トラウズの小説も出てくる。
そう書くとなんだか七面倒臭いだけのこんがらがった小説を連想するだろうが、全くそんなことはない。結局話は一番外側の、病気から回復したシドニーとその妻グレース、そしてトラウズとその家族の話に戻って行く。戻って行って大きな展開がある。
夫婦の話に展開して行ったところで、とても陳腐な倫理的な寓話に落ち着いてしまうのではないかという懸念を持ったが、もちろんそんなところには落ち着かない。言葉というものを捉えた非常に深いところに入って行って物語は終わる。
それはやはりある意味で「寓話」と称するべきものなのかもしれないが、僕は必要以上に寓話として読まずに、この不思議で面白いストーリーをそのまま楽しめば良いのではないかと思う。
そして今回もまた、最後に柴田元幸の「訳者あとがき」を読んで、「なるほど!」と膝を打つことになるのではないかな? もちろん、究極の愉しみは小説を全部読み終えるまで取っておくのが良いと思うが。
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