『勝手にふるえてろ』綿矢りさ(書評)
【10月22日特記】 6年前に初めて読んだとき、おっそろしく文章の書ける作家だと思った。
もちろん「おそろしく文章が書けるわけではない作家」なんて、そもそもその時点で形容矛盾なのだけれど…。しかし、現実にあまり文章が巧いとは言いがたい作家も確かにいて、そういう作家がいることも、そして、そういう作家を好んで読む読者がいることも、それはまあそんなもんで仕方がないとは思うのだが、しかし、そういう作家に文学賞を与えてしまうのは如何なものか、と思っているまさにそういう時に綿矢りさは現れて、そのおっそろしく書けた小説『蹴りたい背中』で芥川賞を受賞したのであった。
1ページ目の1行目から練りに練った文章で勝負をかけてくる作家で、『蹴りたい背中』の時は「さびしさは鳴る」という暗喩を書き出しに持ってきた。今回も「とどきますか、とどきません」という一見何の変哲もない、しかし、その先を読めばやはり意外に深い比喩であることが判る表現を冒頭に据えてきた。こういう凝った文章を重ねて、積極的に読者の感性に攻め込んで来る作家なのである。
主人公は綿矢りさと同じ26歳のOL。彼女には中学時代から好きな男がいるが、やっとこさ再会はしたものの、そこからどうかなるという関係にはなりそうもない。一方、会社の同僚で彼女にアタックしてくる男がいるのだが、しかし、彼のことはどうしても好きという気持ちにはなれない。
下世話に書けば、この2人の男の間で揺れる乙女心云々という話であるが、そういう下世話なところを楽しむ小説ではない。主人公の女性は前者の男をイチと呼び、後者の男をニと呼ぶ。もちろん心の中での話だが。こういうちょっとしたところにネーミングの、と言うか表現の妙がある。そして、そういうちょっとした表現の集積が、この小説に息吹を与えているのだと思う。
作者と同年代の女性や男性をよく観察しているとか、ストーリー的に面白い展開をちゃんと用意しているとか、そういう要素ももちろんあるにはあるが、この小説が面白いのはやはり表現の冴えなのである。
どんなによく観察ができても、どんなに巧みに筋を組み立てられても、それを見事な言葉にして紙に定着させる技術がなければ、それは人の心に触れないのである。それが文章が書けるということなのである。
そしてその文章の巧さには構成の巧さと表現の巧さがあるわけだが、綿矢りさに目立つのは後者である。もちろん、その構成も練りに練った精巧なものではあるが、個々の言葉の切れの方が目立つ作家である。だから、多分短編の方が映える作家である。そして、まるで俳句のような、表現を1箇所変更するだけでその味も余韻も冷めてしまうような、そういう際々のところで言葉を削り出して読者に勝負を挑んでくる感じがする。
それが、この作家の巧さであり、切れであると思う。そして、それらの全部読んだ時に、やはり感じるのは「おっそろしく文章が書ける作家」ということである。
私の書いていることは恐らくあまり理解されないだろうな、とは思う。それは残念ながら私がおっそろしく書ける書き手ではないからである。でも、綿矢りさのこの感じは、読めばきっとお解りいただけるのではないだろうか。
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