『若者よ、マルクスを読もう』内田樹×石川康宏(特記)
【9月9日特記】 マルクスは大変とっつきの悪い作家である。
書いているテーマがあまりに膨大だし、論証は複雑でくどく、文章は(凡そまともな日本語にできていない翻訳家の責任も大だが)難解でまどろっこしい。特に『資本論』は読書会というような形でもとらなければ、とても独力で読める本ではない。
そして。マルクスは近年とても評判の悪い学者である。マルクスを貶す人の論調はこうである──ベルリンの壁とともに東欧社会主義諸国家は崩壊した。故に資本主義社会の必然的帰結として暴力革命による共産主義社会の樹立を予言したマルクスは間違っていた、と。
しかし、マルクスはノストラダムスではない。預言者でも占い師でもないのだ(もうひとつ言うなら革命家でもない)。彼がやったことは現象と本質を見分けること、そして、資本主義社会の本質を見抜くことであった。
マルクスの理論で今の全世界を説明するのはもちろん無理があるだろうが、それはアダム・スミスやケインズの理論だけで今の経済政策を押し切って行けないのと同じである。細部の問題ではないのである。
マルクスの仕事は資本主義の表象を分解再構築して本質をあらわにしたことなのである。その業績によってマルクスは、アダム・スミスやケインズがいまだにそうであるのと同じように、経済学史における偉大な学者なのである。
そのマルクスを内田樹と石川康宏の往復書簡という形で読み解いていったのが本書である。とても偉い試みである。
それは、そんなに難解でとっつきの悪いマルクスを高校生向けの案内書として噛み砕いているからである。そして、今の時代にこんなにも旗色の悪いマルクスを臆することなく正面から紹介し奨励しているからである。
しかし、単に内田と石川がそういう勇気のある企画に手を染めたからこの本が褒められるのではない。それは、この本がそういう意図に沿って上手くまとめられているからであり、恐らく意図した読者に読まれているからである。
そういう意味では、かつては単なる貧乏学者でしかなかった内田が、今をときめくベストセラー学者になったこの時を選んでこの本が書かれたことが(恐らく狙ってのことなのだろうが)成功の一番の原因だと思う。
さて、経済理論を専門とする石川はともかくとして、違う分野の専門家である内田の読み解き方はかなりの“我流”であり、僕のように大学の4年間にマルクスを読んだだけの者であっても容易に異論を挟む余地があったりもする。
読み方がやや一面的であったり、自分への引きつけ方が強すぎたり、何よりもあまりにも解りやすい卑近な例に喩えてしまうところが大変乱暴な気もする。しかし、内田が、いや、内田と組んず解れつのやりとりをする石川も、自らの全身全霊でマルクスを噛み砕き、高校生や初心者にその素晴らしさを伝えようとする熱さはひしひしと伝わってくる。内田が言う「腰が浮く」(37ページ他)感じである。
内田や石川が(そして大学時代の僕も)マルクスを読み進むうちに腰が浮いてくる感じがしたように、僕は今本書を読んでいて再び腰が浮いてくる感じがする。
この本はひたすらマルクスを賞賛するための本であると内田は言う(80ページ)。「マルクスの理論ではうまく説明できない事象がマルクスの死後にいろいろ現れてきたとしても、そのことは少しもマルクスの明察を傷つけるものではない」(81ページ)とも言う。そして、その一方で「『マルクスの理論はあらゆる歴史的状況において無謬である』というようなことを、目を血走らせて言うような原理主義者も、『大人でない』という点では選ぶところがありません」(81ページ)とも付け加えている。
そこを踏まえて読み進んで行くと、この本は「ぼくたち(内田と石川のこと──筆者註)のような、それぞれ政治的立場も意見も違う人間同士が、愉快かつ礼儀正しく対話ができて、それぞれがそこから生産的な知見を汲み出しているということを実例として示すということが、けっこうたいせつなんじゃないかなと思うのです」(145ページ)という更なる高みに読者を誘おうとしているのが窺える。
マルクスとリンカーンが同時代人であるなどという新たな視点も持ち込まれていて、読んでいて大変愉しい。唯一の肩透かしは『ドイツ・イデオロギー』という、マルクスの初期の著書で終わってしまっていること。これはまさに、おいおい、という感じである。
『資本論』への道は遥かに遠い。どうやら続編を出版するつもりらしいのだが、まあ、できるならいっぺんに出してほしかったなという気はする。
ともかく、帯に書いてあるのと同じことを僕も書いて終わりにすることにする──「いいから黙って読みなさい」。
ただし、マルクスを100倍くらい噛み砕いてはあるけど、初めて読む人にとってはやっぱりまだ難しいしとっつきが悪いとは思うよ。
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