TBS 終戦ドラマ SP 『歸國』
【8月15日特記】 昨夜録画しておいた TBS 終戦ドラマ SP 『歸國』を観た。倉本聰脚本、鴨下信一演出である。
僕はそもそも年長者に対する尊敬の念が欠けている。世代論的な対立軸を常に意識しているためにそうなるのかもしれないが、自分より年長の、「巨匠」とか「大御所」などと言われる人の作品を見たいとも思わないのである。
しかし、この特番は、この記事を読んで俄然見たくなった。倉本聰は多少意固地になっているかもしれない。しかし、そこを鴨下信一が上手に料理してくれているのではないかという期待が湧いたのである。
しかし、昨日の放送時間終了後の twitter を見る限り、評判は些か芳しくないのである。もう観るのはやめようかと思ったくらいである。
そして、自分で観てみて、何故このドラマがそんなに受けが悪いのかよく解る気がした。結局のところ、倉本聰を鴨下信一が上手く料理できなかったということではないか。
よくできたお話である。数十名の「英霊」が「昭和85年」の終戦記念日の東京駅に降り立った。夜が明けるまでの間、今の日本を見てくるように、とのことである。
音楽をやっていた者は音大に、絵を描いていたものは美大に、野球をやっていた者は球場にと散って行く。かつての恋人の家に、妹と暮らした思い出の街に、ふるさとの村に、それぞれの思いを抱いて散って行った「英霊」たちが今の日本の在り様に驚き、嘆くのである。
みんなをあちこちに案内して今の日本についていろいろと教えるのが、生瀬勝久が扮する、「英霊」にもなれないまま戦後ずっと日本を漂い続けている亡霊で、かつては左翼活動家であったのに転向して戦意高揚を煽っていた嫌われ者という設定などは非常に巧いひねりだと思う。
そして、詳しくは書かないが、豪華キャストが演ずるそれぞれの英霊のエピソードもよく練られている。
しかし、問題はこのドラマが今の日本と日本人を否定し、糾弾していることである。それはつまり、ドラマの視聴者を咎め、責めることになる。そんなことをして観てもらえるはずがないではないか。
僕はあの記事を読んで、そんなことにならないように鴨下信一が上手く料理しているのだと思い込んだのだが、それは思い違いであった。
まず、主目的が糾弾するということなのであれば、ドラマという手法を採ってはいけないと思う。講演するなり、雑誌に投稿するなり、あるいはブログに書いても良いが、やり方はいろいろあるはずである。ドラマは演説の場ではない。
ドラマがここまで単純な勧善懲悪になってしまうと、全てが茶番に見えてしまうのである。大学教授を演じた石坂浩二など、さながら御白洲の場で遠山の金さんにひれ伏す小悪党ではないか。しかも、しおらしく「改心」するので失笑した。
65年前の英霊が大挙して現代の日本に降り立つという設定自体はとても面白いと思うのだが、ドラマの中でドラマ自身が当時と現代の対比をしてはいけない。それは視聴者がやることである。
過去の時代だけが描かれていても、視聴者が自分をそこに引きつけて見るに至った場合は、視聴者は自ずからそれぞれの心の中で当時と現代の比較をするのである。脚本家や演出家がやってみせたり押しつけたりするものではない。
65年もの時間が過ぎているのである。当時の兵隊さんが今の日本に対してものすごいギャップを感じるのは当たり前である。そのギャップの大きさをこれ見よがしに提示しても視聴者は驚かないし共感も抱かない。ギャップの大きさではなく、ギャップ自体が現代人が想像するものとは少し違うのだということを提示してやるべきなのである。そうしたときに視聴者は初めて振り向くのではないだろうか。
今の若者に「65年前はこうだった」などと言っても「うざい」と思われるのが関の山である。このドラマの一番の問題は、脚本家はそのことを知っているくせに、それを乗り越えようという気はなく、ただ一層声高に叫ぶばかりであるということである。
長渕剛が扮する指揮官が生瀬勝久に、「あんたがいくら叫んでもあんたはすでに忘れられた存在であり、言ってみれば2度死んだ存在なので、その叫びは届かないし片想いである」みたいなことを言われるシーンがある。脚本家が自ら書いているのである。脚本家は知っているのである。
それに対して長渕は歯ぎしりしながら「そうですか、そうかもしれませんね」と言う。脚本家がそう言わせるのである。
つまり、彼はそれを乗り越える気がない。伝えるために何をすべきかを考えるのではなく、自分の思いを(たとえ聞く者が誰もいない空間に対してであっても)叫ぶことの快感に酔っているのである。これでは頑固爺の愚痴に過ぎない。倉本聰はもう駄目だと思った(ま、昔からそんなに入れ込んだこともなかったのだが)。
八千草薫の「今の日本はどんどん豊かになっているけれど、日本人はどんどん貧しくなっているような気がする」という台詞があった。上手い台詞なのだろう。だが、これが一番うざかった。
脚本家は今の日本を豊かだ豊かだと連呼するのであるが、バブル全盛の時代と違って、短期的に見て少し豊かでもなくなってきた時代なのである。脚本家にはそういう視点が欠けていたのではないか(いや、ひょっとすると短期的な見方などをしようもんならそれさえ糾弾されてしまうのかもしれない)。
いずれにしても、これでは伝わらないだろう。ビートたけし、小栗旬、向井理など、錚々たるメンバーを揃えながら惜しいことである。
構造的な障壁を乗り越えなければ伝わらない下の世代に対して、どう工夫してどう伝えて行くか──それこそを考えて行くべきではないのか。
Comments
フィクションにこれだけ本気のコメントができる貴方は大したものだね。
ただ、メッセー姿勢の強い作品になればなるほど意見が分かれます。
見ている方が何を言おうと自由ですが、作り手も表現者としての自由が許されている以上、視聴者の目線に合わせる必要はないと思っています。
答えを求めないと生きていけないのなら、自分で答えを探し出せる生き方をしてくださいな。
感動とは、自らが感じて自らが動くから感動なのだ。
人から与えられたり、テレビや映画などから、垂れ流し的に与えられるものでもないと思う。
こういうところを見ていると「日本丼は馬鹿だなー」って思うぞ。
Posted by: 秋吉 | Sunday, August 15, 2010 23:45
> 秋吉さん
うーん、後半何をおっしゃっておられるのか今イチ解らない部分もあるのですが、ちょっと僕の書き方が荒っぽすぎて不快感を与えたのかもしれません。時々調子にのってしまうのです。ご勘弁を。
「見ている方が何を言おうと自由」とお書きいただいているので、軽々にその自由に乗っかったものとご有恕ください。
視聴者の(というか若い世代の)目線に合わせずに作るという方法もあるというご批判は、それはそれとして受け止めさせていただきます。
Posted by: yama_eigh | Monday, August 16, 2010 00:00
作品をどう受け取っても受け手の自由という反面、何を伝えたかったのかを理解する能力は重要です。
受け付けない作品が本であれば閉じればよいし、ドラマならチャンネルを変える。
ここ数年、民放のドラマは観ていません、つまらないし脚本家が不憫になるからです。
Posted by: tonbi | Monday, August 30, 2010 15:37