映画『ちょんまげぷりん』
【8月13日特記】 映画『ちょんまげぷりん』を観てきた。予告編を初めて見た瞬間からもう観ようと決めていた。これで中村義洋監督作品は『ルート225』以来8本連続して観ている。
しかし、それにしてもジャニーズっちゅうのは強いなあと実感した。明らかに映画ではなく錦戸亮を観るために来たと思しき観客が何人もいるではないか(たいていは女性2人組)。
彼女たちのうちの何人かが、「ああ、面白かった」と満足して帰るついでにこの監督の名前も憶えて、「へえ、『チーム・バチスタの栄光』も『ゴールデンスランバー』もこの監督だったのか」と気づいて、そしてたとえジャニーズ事務所のタレントが出ていなくても、中村監督の次回作を観ようかなと思ってくれたりすると、それはとても嬉しいことである。
中村監督の特徴は小難しくなくて解りやすいこと。そして、どんな題材でもこなしてしまう器用さ。できあがった映画には度肝を抜かれるようなところはなくて、「圧倒的な感動」が得られたりすることもなく「今年一番泣ける」映画であったりもしないのだが、しかし実際に観てみると、しっかりと手際よく作られた、明らかにプロの仕事なのである。
そして、この監督の強みは(監督に専念することもあるし、単独でない場合もあるが)自分で脚本を書くこと。この脚本の上手さこそが最大の武器だと思う。
原作は荒木源の小説。設定はかなり奇想天外である。
180年前の江戸時代から25歳の侍・木島安兵衛(錦戸亮)が現代の巣鴨にタイムスリップしてきて、プログラミングの会社に務める33歳の遊佐ひろ子(ともさかりえ)と一人息子の友也(鈴木福)に最初に遭遇する。
自分に何が起きたか信じられない安兵衛と、本当に江戸から来たのか単なる精神疾患の患者なのか半信半疑のひろ子との間でいろいろあったが、結局のところ安兵衛には他に頼る当てもなくひろ子の家に居候させてもらうしかない。考えた結果、ひろ子は働くシングル・マザーであるため、安兵衛が「奥向きの用事」を引き受けると言う。
そして、おっかなびっくりで洗濯機や掃除機を使って家事をこなすうちに料理にはまり、お菓子づくりに才能を発揮してしまうという話。
原作の小説自体の魅力もあるのだろうが、映画としてのこのまとまり具合は見事である。本当に巧い脚本で、過不足がない。ドラマに出てくる小道具を2時間かけて全部筋に盛りこんで見事に消化してくる。
錦戸の如何にも侍らしい所作も、これはかなり練習したのだろうけれど、細かいところまで徹底していて、タイミングと身体の動きだけで充分笑いを取れる。
腰掛けたときに一人だけ浅くて背筋が伸びているといった隠し味めいたところから、電話の呼出音に驚いて刀を取りに走ったり両手で押し頂くように受話器を取ったりする大きめのアクションまで見事に練り上げられている。
そして、最初の出会いである、マンションの自転車置き場での、侍のちょんまげだけが見えたり隠れたりするシーンを、その後のマンションの狭いキッチンで向きあって座るひろ子と安兵衛の頭が見え隠れするシーンに再現したり、あるいは公園での長廻しとか、はたまた最後のシーンでの和菓子屋での母子の2ショットと、その奥にある看板とか、とても良い画が撮れている。
唯一違和感があるとすれば、江戸時代の侍にしては錦戸がすらっとしすぎていることくらいだろうか。ま、僕自身はそんなことは見ていて気にもならなかったが。
脚本で良かったと思うのは、ひろ子と安兵衛の価値観がある程度すれ違ったままであるということ。
どんなに打ち解けたとしても、江戸時代の倫理観・仕事観・男女観と現代東京のそれがそう簡単に融け合うはずはないのであって、そのことをちゃんと押さえた上で、しかし、この安兵衛という男はなかなか柔軟であるぞ、と思わせる辺りが、細部に神経の行き届いた映画だと思った。
パンフレットのインタビューを読んでいたら、監督が「脚本を書きながら思ったのは『遥かなる山の呼び声』や『シェーン』、伊丹十三監督の『タンポポ』などとプロットが同じだなぁと」と言ってるのがものすごく面白かった。
僕は『遥かなる山の呼び声』は見ていないしどんな映画かも知らないのだが、『シェーン』は流れ者のヒーローがやってきて事件を解決して去って行くという古典的な西部劇の典型である。そして、それをラーメンでやろうと本気で考えて映画にしてしまったのが『タンポポ』である。
思えばかつて伊丹十三の助監督をやっていた中村義洋が、今度はラーメンをプリンに変えて、タイムスリップまで取り込んで半分時代劇にしてしまったのである。なんとも面白いではないか。
大作ではないかもしれないが、これは大向こうを唸らせるだけのプロの作品であると思う。今後も中村監督から目が離せない。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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