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Sunday, August 22, 2010

メモ

【8月22日特記】 例えば僕がある映画を酷評したとする。

実際にはそんなに数は多くないと思う。何故ならあまり独断的に貶さないように、少なくとも頭ごなしに否定したりすることのないように心がけているつもりだから。しかし、それでも時々貶してしまう。あるいは抑えたつもりが筆が滑ってしまう。

もちろん何の映画であれ、誰によってであれ、貶されるのは仕方がないと思う。作品というものは発表した瞬間から万人の批評に晒される運命にあるのだから。もしも、批評されるのが嫌であれば発表しない以外に手はないのである。

しかし、上にも書いたように、だからと言って調子に乗って貶しまくって良いと思っているわけではない。それなりに自重はしているし、できるだけ長所を見つけて書いているつもりである。ところが、時々それは本人の「つもり」でしかなくて、読んだ人の怒りを買うことがある。

怒りを買って不思議に思うことが2つある。

1つ目は、なんでこの人はこんなに腹が立つのだろうか、ということ。

僕は自分がどんなに好きな作家であれ尊敬する監督であれ、その人の作品が貶されても腹が立ったりはしない。貶した人のことを「解ってない奴」だと思うことはあるだろうが、彼に対して怒りを覚えることはまずない。

あるいは逆に「ふむ、なかなか痛いところを突いてくる奴だ」と感心することはある。

いずれにしても、ある意味で言えば、僕がどれほど好きな作家がどんなに叩かれ貶されても、それは僕とは無関係な他人事であるから痛くも痒くもないし、逆の意味で言えば、別に誰かが貶したところで、僕の尊敬する監督に対する僕の好意は1インチたりとも動かない。

──それが僕の感覚である。

なのに、僕がある作家なり映画なりを貶したと言って怒ってくる人が、ごくまれにではあるが、確かにいる。この人はひょっとしたら映画を作った本人なのか、あるいは関係者なのか、親類縁者なのか、僕は不思議に思う。

もう1つは、この人は何故僕の文章に批判の矢を向けてくるのかな、ということ。

いや、そのこと自体が悪いというつもりはない。僕の書いた文章も作品であるからには発表した途端に批判に晒される運命にある。僕の書いた文章が貶されるのが嫌であれば、僕は文章を発表しない以外に手はない。

ただ、僕が「これは違うな」というレビューを読んで、どうしてもそのことについて書きたくなったら、僕ならば「でも、僕はこの映画のこういう所はとても素晴らしかったと思う」という風に書くだろうと思う。「お前の考え方や書いていることは間違っている」みたいな書き方は少なくともしない。

あるいは「(この映画を酷評した)彼はこんな風に指摘しているが、僕はこんな風に感じ、こういう具合に解釈した」などと書くかもしれない。いずれにしても、僕の書く文章は概ね批判した人物ではなく、作品のほうを向いたものになっていると思う。

そんな風に書いてくれれば、僕も「なるほどな」と感じる可能性が高くなると思う。そうでなくても、静かに落ち着いた心で冷静に反批判を展開しやすくなる。僕の次の文章は「確かにそういう面はあるかもしれませんね」で始まるかもしれない。そうなると件の彼の次の文章も落ち着いてくるはずだ。

平たく言うと、そういう書き方をしてくれると、その後会話が弾むのである。

会話が弾むのは良いことだと思う。

まあ、だけど、そうは行かない場合もある。まあ、仕方がない。仕方がないけど、僕はそんな風に思うということを一応書いてみた。これは書いてどうなるということでもない、単なるメモだな。

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