『1Q84』BOOK3 村上春樹(書評)
【6月4日特記】 BOOK3 である。BOOK1-2 と明らかに違うのは、僕らがすでに BOOK1-2 を読んでしまっていること。即ち、それは最初から「続き」として始まったということ。そして BOOK1-2 を読んでいる時と決定的に違うのは、僕らはこの後に BOOK4 が続くことを明確に知っているということだ。
つまり、言うならばブリッジなのである。橋渡しという意味のブリッジ。あるいは音楽用語の「サビ」だと思ってもらっても良い。あるいは小説全体をひとつの文章になぞらえるなら、起承転結の「転」なのである。
ただそれは起から承へとまっすぐに繋がってきたものが、急に方向を転換するというような感じのものではない。無理やり変化をつけようとする匂いもない。ただ、BOOK1-2 では天吾の章と青豆の章が交互に続く構成になっていたのに対して、BOOK3 ではそこに唐突に牛河が加わり、リズムは2拍子から3拍子に変わる(ただし、テンポはそのままで)。
なぜ、ここに来て急に牛河などという醜い脇役が全体の3分の1の章を奪う必要があるのか、それは全く理解出来ない。ただ、BOOK1-2 では大人しくしていた牛河が急に活発に動き出して、ストーリー自体もエネルギーを増してうねり始める感がある。
でも、その一方で BOOK1-2 でははっきりしなかったいろんなことが繋がり始め、説明がつくようになってくる。僕は、ちょっと辻褄が合いすぎるのは勘弁してほしいな、と祈るような気持ちで読み進んで行く。
僕はあまりいろんなことを解釈しながら読んだりはしない。そんなことをするともったいない気がするからである。作家のイメージの横溢を、できることなら何も解釈せず、ただ身体いっぱいに浴びていたい気がする。
で、やっぱり、この小説を今語ってしまうのは適当ではないような気がしてくる。BOOK2 を読み終わって書評を投稿した時とは条件が全く違うような気がする。
再び音楽の比喩に戻るなら、この BOOK3 はコードで言えば IIm7 で始まって V7 で終わっている。BOOK4 でのケーデンスに向けて、明瞭なドミナント進行になっているのである。今ここで語ってしまうのはもったいない。今ここでは息継ぎさえするべきタイミングではない──そんな気がする。
そして、それは裏返せば、途中で目が離せないくらい面白いということだ。
BOOK1-2 の書評の中で、僕は「久々に村上春樹らしい、面白い小説だ」ということを書いた。この BOOK3 でもそのことは変わらない。ただ、少しずつ辻褄が合い始めている。頼むからもう少し辛抱してくれ、と思いながら、そして、村上春樹のことだから、これらを下手にきれいに説明しきってしまうことはないはずだと信じて、僕らは読み進む。
いつの間にか僕らはもう BOOK4 が待ちきれない崖っぷちに立たされているのである。
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