『この胸に深々と突き刺さる矢を抜け』白石一文(書評)
【5月15日特記】 (上下巻合わせての感想です)
この作家の作品を読むのは初めてなのだが、どうも僕は単行本の帯の宣伝文句に騙されることが多い。と言うか、帯のコピーを書いている人たちとセンスが合わないのだろう。
この本も下巻の帯の「現代社会の巨大システムそのものを描く(中略)フリードマン、マザーテレサ、キング牧師、湯浅誠、クルーグマン…思考と引用のタペストリーのなかで物語がうねる」という宣伝文句に惹かれて買ったのであるが、僕自身としてはリチャード・パワーズかスティーヴ・エリクソンかドン・デリーロみたいな、あまりに圧倒的で複雑で難解で、読んでいて頭がクラクラしてくるような小説をイメージしていたので、いざ読み始めてみると、あらら、意外に軽いな、という失望感に襲われた。
確かに経済学や政治学をはじめ、伝記から統計数字に至るまで、いろんな文章が引用される。だけど、これはそんなに驚くべきことだろうか? 僕らがものを考えるときに、頭の中でこのくらいいろんなことを参照していても珍しいことではないだろう。
この小説のポイントはそういうところにはないのだという気がする。この小説はそういう装飾一杯の格好をして、まっすぐに死生観に繋がって深く掘り下げて行く、むしろ一途な感じの作品なのだと思った。
そういう意味では帯の宣伝文句よりも、奥付の著者紹介にある「独自の視点と透徹した文体で、カリスマ的人気を博す」のほうがよほど的を射ている。
主人公は癌の手術を終え、その再発の恐怖の中で仕事をこなしている、雑誌の編集長である。著者自身が出版社勤務の経験があるらしい。雑誌編集の裏側みたいな割合下世話なストーリーをスマートに読ませるのは、上で言う「透徹した文体」によるのだと思う。そして、TVの2時間ドラマみたいな派手めの展開をしながら、主人公の死生観に迫って行くところがなかなか見事である。
この死生観はいかにも「独自の視点」と言えるものである。決して「巨大システムそのものを描」こうなどと、下手なあがきはしていない。むしろ社会システムが何であれ、そんなものに全く左右されない「死」というものをこそ、彼は描ききっている。
結局のところ、期待したような重苦しい本ではなかったのだが、これはこれでとても読み応えのある面白い本であった。後味も大変よろしい。
久しぶりにもう1冊読んでみようかという作家に出くわした。
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