『告白』マスコミ試写会
【5月18日特記】 映画『告白』のマスコミ試写会に行ってきた。原作に惹かれたのではない。中島哲也監督である。
『下妻物語』、『嫌われ松子の一生』、『パコと魔法の絵本』と、一貫して溢れんばかりの色彩の映画を撮ってきた監督である。それが、あの色彩などとは全く無縁に思える原作小説をどう料理したのか?
予告編を見る限り実際全般にモノクロっぽいではないか。中島監督は今回は色彩という飛び道具を封印してかかったのだろうか? ──それが興味の第1であった。
そして、いざ映画が始まると、原作小説とはミスマッチな感じの音楽が鳴っているではないか! こういうところでいきなり期待感を高めてくれるのである。
本屋大賞を獲得した湊かなえの原作を、僕は必ずしも高く評価していない。
ストーリーも文体も、如何にも頭で考えましたという人工的な感じがする。そして、なんと言っても人物の描き方が類型的で一面的だと思う。どうしてその人物がそんな行動をするに至ったのか、その背景をきちんと描いているように見えて、実は人物に対して一方向からしか光を当てていない気がする。
ところが驚いたことに中島監督はインタビューに答えてこんな風に語っているのである。
『告白』の人たち(=登場人物)は(中島監督の)頭の中にいつまでも住んでいて、次の映画は彼らを撮ってみたい、と自然に思いました。登場人物が魅力的だと、その人のことをもっと知りたい、会ってみたい、という気持ちがわいてきます。
※( )内は筆者による註
もちろんそんな風に思ったからこそ映画化したのであろうが、しかし、それにしても、やっぱりこういう感じ方をする読者っているのか、と僕には少しショックでさえあった。
ま、なんであれ、僕の興味は中島哲也がこれをどう料理したかである。そして、そういう意味では最初のシーンから魅せてくれる。
原作と同じく生徒に娘を殺された中学教師・森口悠子(松たか子)がホームルームで生徒たち相手に長々と語るところから始まるのだが、原作では静かな恐ろしさと言うよりもむしろ平板な感じが否めなかった。が、中島監督は原作のように森口に延々と滔々と語らせるのではなく、そこに生徒たちの勝手な動きを入れ込んで行ったのである。
中学生たちは先生の話を黙って神妙に聞いてなどいないものだ。先生の話にいちいち茶々を入れ、友だちと話をする。いや、先生の話を聴きながら携帯メールを打っていたり、そもそも先生の話を聞かずに隣の子と雑談したり、ひとりで違うことやってたり、いや、それどころか勝手に教室から出て行く奴さえいる。
そういう如何にも中学生らしい息吹を森口の語りの合間に細切れに挟んでいったのである。いや、場合によっては森口の語りに被せて重ねて行ったのである。ストーリーの進行上は必ずしも必要ではない細工である。でも、こういうことがリアリティを見事に補強してくるのである。
そして、色彩こそは抑えめであったけれど、高速度撮影とCGで、少女たちの揺れるスカート、水の飛沫やシャボン玉、落ちて割れる食器やガラス、爆風で吹っ飛ぶ建材など、映像美術としての面白さは満載であった。
脚本は、かなり細かいレベルで原作に手を入れ、設定を少し足したり展開におかずをつけたり、台詞をいじったりして、これも見事に作品を深めていると思った。やっぱり良い監督なのである。時間軸をいじって少しシーンを前後しているところも作品にうねりを生んでいると思う。
そして、出演者では、森口の後任のKY熱血教師“ウェルテル”に扮した岡田将生が、いつもの役柄と一変して面白かった。また、手許に資料がない上にHPにも記述がないので名前が分からないのだが、女生徒・美月を演じていた子の印象も強い。
で、原作からしてサスペンスとしては綿密に練りこまれた作品であった訳で、当然映画のほうも最後まで飽きさせずに引っ張って行ってくれた。周りにはなんと、気の早い話だが、今年度の日本アカデミー賞候補だなどと言っている人までいたくらいである。
ただ、僕としては、やはり原作で措定された人物が悉く類型的であったところが、映画においてもある種の限界になっているような気はした。そして、救いのない話であるところも同様。
ただ、逆に言うと、そういう小説をこんな風に見どころたっぷりの映画に昇華させているあたりが、やはり名監督の名監督たる所以であると思ったのも確かである。
原作が面白かった人なら間違いなく面白いだろう。原作に不満を持った人なら、逆に中島監督の非凡さをいまさらながら認識できるのではないだろうか?
ただし、中島作品としては『下妻物語』や『嫌われ松子の一生』のほうが遥かに魅力的であると僕は思う。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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