追記:『悪いのはみんな萩本欽一である』
【4月6日追記】 『悪いのはみんな萩本欽一である』(一昨日の記事参照)を観て、ひとつ意を強くしたことがある。
それは、このブログにも以前書いたことがあったかもしれないが、テレビが今後取り組んで行くべきなのは「しっかりと作り込んだコンテンツ」なのではないかという思いである。僕のその思いを、この番組が図らずも補強してくれたような気がするのである。
「しっかりと作り込んだコンテンツ」とは、例えばドラマであり、コントであり、音楽番組である。練り込んだ台本に沿って、的確な演出に従い、入念なリハーサルを重ね、丁寧な編集を経て送り出される番組である。
それはアドリブを排除するという意味ではない。コントや音楽にもアドリブの要素はあるし、ドラマや映画でさえアドリブが入り込む余地はある。それがいけないと言うのではない。ただし、最初から綿密な計画を立てて撮り進めた番組という意味である。
それはつまり、出演タレントのトークの力に頼り、現場でのハプニングを活用して行くバラエティとは一線を画す種類の番組という意味である。
ものすごく大雑把に単純化してしまったまとめだが、『悪いのはみんな萩本欽一である』の中で言われていたのは、概ね次のようなことである。即ち、新しい笑いの要素はほとんど欽ちゃんが開発してきたが、今やそれを継承発展させるだけの力量のあるタレントもスタッフもいない、と。だから、ある意味で番組が荒廃してきたのである、と。
そして、欽ちゃんのいろんな手法をまとめてひと言に集約してしまうと、それは予定調和の笑いを排すること、そして、常に常識の裏をかいて意表を突くと言うことである。
ところが、これがやり尽くされてしまった。これ以上やると些か乱暴なものになるしかないのである。
ならば、今こそ回帰するべきタイミングではないだろうか? テレビ創世期の、あるいは黄金期の番組の手法に。
それを僕は「しっかりと作り込んだ番組」と言い、ドラマであり、コントであり、音楽番組であると説明した。しかし、そこに例えば『シャボン玉ホリデー』や『てなもんや三度笠』を含めても構わない(これらはともにあの番組の中で引き合いに出されていた番組である)。あるいは『ゲバゲバ90分』でも良いのかもしれない。バラエティであれ非バラエティであれ、ともかく「作り込んだ」ということがキーワードではないかと思うのである。
別に理屈ではなく、なんとなく作り込まれたものを観てみたいという思いもある。しかし、それだけではない。
リアルタイム視聴だけでは立ち行かなくなったテレビというコンテンツ産業が今後生きて行くためには、繰り返し何度も観たくなるようなコンテンツこそが必要なのであって、それはリアルのハプニングを際立たせたバラエティではなく、最初から作り込まれた番組ではないかと思うのである。
あの番組であぶり出された今のバラエティの閉塞感が、変なところで僕の確信を強めてくれた。
「悪いのはみんな萩本欽一」なのではなく、「萩本欽一はもう充分楽しんだ。これからはリハーサルに支えられた、ある種の"芸"をこそ見せて行くべきではないか」と思うのである。
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