『ヘヴン』川上未映子(書評)
【4月5日特記】 芥川賞をもらった頃に巷間伝えられたイメージから、もっとはちゃめちゃな設定の、荒唐無稽な文章を書く作家だと思っていた。
たとえば途中で世界が歪んで今までのストーリーがどっかへ飛んでしまい、訳は分からんけどなんか面白いとか、文法も時々むちゃくちゃになるけど妙にイメージだけは的確に伝わってくるとか、勝手に僕はそんな小説を想像していたのであった。
ところが、読み始めてみると、かなりオーソドックスではないか。そうなって来るとそうなって来たで、今度はなんだか無性に物足りない気がしてくる。読者とは真に勝手なものである。
描かれているのは、ひと言で言ってしまうと(本当はひと言で言ってしまっては身も蓋もないのだが)中学校でのいじめの話である。
主人公は斜視の少年。恒常的にいじめを受けている。そして、いつからかその少年に親近感を覚えて彼に近寄ってきた同級生の少女・コジマ。彼女もまた「身なりが薄汚い」という理由でいじめを受けている。
どこにも突飛な設定はないし、ぶっ飛んだ表現もない。いや、むしろ、地に足がついた感じで、オーソドックスに巧い作家であることが解る。
しかし、そうなってくると逆に、読み終わったときに「これで終り?」という印象が残ってしまうのである。終わり方は悪くない。と言うよりむしろ巧い。けれども、こういう風に静かに進んだ小説であれば、最後まで読んだときにもっと大きな驚きがあることを期待してしまうのである。
例えば小説が進行する中で途中まで書いて放棄されていたことが、最後に全部繋がって一気に謎が解けるみたいなエンディングを。
それを思うとこの小説には、表題になっているヘヴンの正体をはじめ、いくつか書きっぱなしのまま最後を迎えてしまったことが多すぎるように感じてしまうのである。
いや、最後に帳尻を合わせることが全ての小説に求められるというわけではない。わざと放置したままぶった切るように終わるのも小説の一つのテクニックではある。
しかし、勝手にぶっ飛んだ作家を想像していて、いざ読み始めたら裏腹に正統な小説であったとき、どうしてもなんだかこのままでは済まないという気がするのである。真にもって読者というのは勝手なものである。
ただ、この小説は終わり方がすべてという小説ではない。この小説の白眉は、むしろいじめる側の少年である百瀬が極めて身勝手ないじめる側の論理を展開するシーンではないだろうか。このあたりはなかなか深く胸に食い込んでくる。
この深さが最後まで持続するからこそ、想像と違って少し面白味に欠けるような気がしながらも、きっちり最後まで読めたのである。
僕のような勝手な先入観なしに読み始められた人は、当然もっともっと面白く感じたのかもしれない。ひょとすると川上未映子の作品の中で最初に選ぶべき小説ではなかったのかもしれない。
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