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Thursday, April 22, 2010

映画『ソラニン』

【4月22日特記】 映画『ソラニン』を観てきた。

評価のはっきり分かれる映画だ。そういう意味で興味深々で見始めたのだが、画は初めから悪くない。

では、本はどうか? 時々笑いを取るべきところで取れていないのが気になるが、時折良い台詞もある。演出は、台詞と台詞の間の沈黙を上手に使っている。例えば終盤の桐谷健太が自転車の後ろに宮﨑あおいを載せて走る長回しなんて、下手に台詞を詰めずに、すっごく良いシーンになっているではないか。

だが、いずれにしても激賞するほどの理由も、斬って棄てるほどの理由も見当たらない。

ただひとつだけ言えるのは、これは宮﨑あおいショーだと思って観るなら(僕も含めて)ファンにとっては堪らない映画であるということだ。宮﨑あおいの魅力は十全に惹き出されている。(宮崎あおい)

ストーリーは単純だ。

アルバイトをしながらバンドでギターを弾いている種田(高良健吾)とその恋人の芽衣子(宮﨑あおい)の話。2人は大学のサークル(軽音)仲間だった。芽衣子は卒業後、別になりたくもなかったOLになり、種田はミュージシャンへの夢を捨てきれずに定職にはつかないままだ。

そして、予告編を見た観客なら、その種田が突然死んでしまい、やがてそのショックから立ち直った芽衣子が彼のギターを持って舞台に立つ、というところまで知っている。ただ、もっと早く死んでしまうのかと思ったらそうではなく、彼が生きている間の2人の思い出や挫折がたっぷり時間をかけて描かれるのである。

そうすることによって、芽衣子が立ち直る困難さをあまりしつこく描かなくてもちゃんと伝わって来るのである。なるほど、そういう手法か、と少し感心した。

そして、この映画に関して、しきりに悪意を持って言われたり書かれたりしているのは、宮﨑あおいが歌もギターもあまりにもヘタクソであるということである。しかし、その歌うシーンは最後の最後までずっと隠されたままである。練習のシーンも専らギターを弾いているか、それに合わせて鼻歌をうたっているかである。

そして、とうとう彼女の歌が始まった時、僕は驚いた。良いではないか。ファルセットを使わない、女性の強い地声というのは僕が好きなタイプの声である。中低音に力のある、あまりに良い声なので驚いた。もちろん上手くはない。しかし、短時間で歌とギターの練習をしたという設定なので、ある程度下手な方がむしろ説得力はある。

問題は、その上手くない歌で観客の心を動かしたというところに説得力があるかどうかであるが、僕には充分すぎるほどの説得力があった。少しぶれてはいる。しかし、張りがあって一途な感じがした。素直な良い歌だった。

映画は種田のバンド仲間であるドラムスのビリー(桐谷健太)、ベースの加藤(サンボマスターの近藤洋一)、そして加藤の恋人であるアイ(伊藤歩)を含む5人の群像劇として進行している。5人ともとても良い芝居をしている。そして、少し上の世代として登場する、元有名バンドのギタリストで今はレコード会社のディレクターの沢木を演じているARATAがまたものすごく良い。チョイ役の安藤玉恵も良かった。

監督の三木孝浩や脚本の高橋泉(あの『ある朝スウプは』の高橋泉である!)が劇中の若者を肯定的に捉えていたのか、あるいは否定的に描こうとしたのかは分からない。ただ、僕は、彼らの生き方には全く共感を覚えない。

彼らは少しでも嫌なことはどんどんと先延ばしにする典型的なモラトリアム青年である。自分で決断して道を切り拓くのではなく、何かラッキーなことが起こらないか待っているだけの夢想家である。

夢を諦めた者を祝福できないバカ野郎である。それどころか「そんなことで良いのか」と詰め寄ってしまう飛んでもない奴らである。──「そんなことで良い」わけがないではないか。にも拘わらず諦めようと決断した、その勇気と哀しみをどうして汲みとってやれないのか。そして、そのくせ自分は自分の人生には正対できない腰抜けなのである。

怖いけれど、何かを捨てたところから新しい何かが始まるということを、身を以て理解しようとしない若者たちの話なのである。多分僕たちもきっとそうだった、痛々しい若者の話なのである(ただし、僕らの世代から見ると、「もっと鬱屈していて良いのではないか? その根拠のない楽観は何なのか?」と思ってしまうが・・・)。

ただ、この映画を見ていると、彼らの生き方には共感できないのだが、音楽というものが持っている価値、意味合い、そして魔力については、どうしようもない共感を覚えてしまうのである。

これはそういう映画である。いろんなことを考えさせてくれたあとで何も考えず音楽に打たれてしまうそういう映画である。

この映画の中で、種田は芽衣子に苗字で呼ばれ、芽衣子は種田に名前で呼ばれている。それは種と芽の比喩を際立たせるためである。種のまま死んでしまった種田の思いを引き継いで、そこから芽が出てくる話なのである。

劇中歌『ソラニン』の詞に、「たとえばゆるい幸せがだらっと続いたとする/きっと悪い種が芽を出して/もう さよならなんだ」とあるのと合わせて読むと、意味はもっと深くなる。

僕が映画館で観た14本目の宮﨑あおい出演作品だが、見終わってみると意外にその中で5本の指に入る作品かもしれないという気がしてきた。

★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。

Swing des Spoutniks

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