無題
【3月30日特記】 今日、ネット上でこんな言説を読んだ。
先日知人と話していて、ある年代の方々は体制に反発するマインドを持っているが、いまの若いもんは長い物に巻かれているという話になった。私はかなり世代と無関係に生きてるほうだと思うが、闘う必要がない、と思ってる。
書いたのは僕らよりは下の世代の女性だが、それほど若い人ではない。もっと若い人たちも結局同じような感じなのかもしれないが、多分若い人たちの場合はここまで自覚的ではないのではないかと思う。
これを読んで僕は、ある部分「なるほど」と思い、ある部分「おいおい」と思う。そして、このブログでも何度か書いているが、いつも同じ痛恨の思いに苛まれるのである。
「なるほど」と思うのは「闘う必要がない」という表現の巧みさである。「おいおい」と思うのは、そもそも闘う必要がない相手にもやみくもに挑みかかって行くのが青春ではないのか、という思いである。
僕らは闘う必要があった。それは上の世代が、上司が、そして権力や組織が横暴だったから。
僕らは四六時中戦っていた、とまでは言わないが、節目節目で戦わざるを得ない状況に追いやられたし、戦う必要のない時にも決して油断はできなかった。時には叩かれる前に叩くことも必要だった。
僕らはそれが嫌で、少なくとも下の世代に対しては、上の世代が僕らにやったような仕打ちはしないでおきたい、と考えた。「お前ら一回鍛えてやる」なんてことは言いたくないし、そういう発想もしたくなかった。しかしその結果は、考えようによっては下の世代を甘やかしただけだったのかもしれない。
僕らは哀しいけど組織や上の世代に叩かれることによって成長した。嫌な思いを一杯して強くなった。下の世代に嫌な思いをさせないでおこうと思ったばかりに、工夫も反骨もない、すぐに折れてしまう世代を育ててしまったのではないだろうか?
──いつもそういう痛恨の思いに戻ってくるのである。いや、それでもこれで良かったんだ、と言い切る自信が自分の中にはないのである。これって何なんだろう?
世の中を良くしようとして世の中は良くなっていない。苦しまずに生きられるようになるためには苦しまなければならないのか? それって、何のために生きているのか?
いや、しかし、それは「どうせ皆いつかは死んでしまうのに、ただ単に死ぬために生きているようなものだ」という後ろ向きの考え方とは対極をなすものだから、それはそれで、つまり、苦しまないために苦しむというのは正しい生き方なのかもしれない。
件の彼女はこう続けている。
家族で言えば次男次女的位置じゃないかな。長男長女の失敗も見てるから要領がいいんだ。
壊さなきゃいけない、そしてそれに関わらなきゃいけないときって莫大なエネルギーがいる。必要ならイヤでも関わらせられるから、省エネをデフォルトにしてちょうどいい感じ。
そうか、僕らは失敗した長男なのか。そして、省エネがデフォルトなのか。
問題は君らが、いざ動かなければならない時に動けるかどうか、闘わなければならない時に闘えるかどうかである。
それさえできれば、僕はこれ以上何も言う気はない。頼むよ、闘う姿を見せてくれ。闘う相手は僕らであっても構わないから。
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