『字幕屋は銀幕の片隅で日本語が変だと叫ぶ』太田直子(書評)
【2月26日特記】 映画の字幕翻訳者のエッセイである。タイトルを見れば凡そどんなことが書いていあるのかは想像がつく。
字幕というのは単なる翻訳ではなく、限られたスペースに、限られた時間で読める、限られた字数の漢字と仮名で、外国語の意味を日本語の意味に置き換える作業である。そういう厳しい制限の中で繰り広げられる、言わば翻訳の「芸」なのである。
僕自身も洋画を観ていて、「おお、直訳としては邪道だけど、意味と雰囲気を同時に伝える見事な字幕だ!」と感激したり、「ははあ、限られた字数の日本語にするには、こう訳すしかなかったか。なるほどなあ」と納得したり、時には「それは違うだろ」とひとりごちたりしていることがある。明らかな誤訳を指摘するメールを配給会社に送ったこともある。
普段からそういう風に字幕に対する関心が強い人間にはなかなか面白い読み物であった。実は濃霧で飛行機の出発が遅れたときに空港の売店で買ったのだが、一日で読んでしまった。
ただ、僕が読んで驚いたのはここで紹介されているような個別の翻訳のテクニックではない。そういうことは読む前から想像のつくことだった。僕が驚いたのは、作者が英会話が得意ではないと言っていること、そして、辞書を引きまくって字幕を完成していると告白していることだった。
僕は字幕翻訳者というのは口語英語のかなりの使い手で、もちろん仕事に辞書は用いるだろうがもっぱら耳で聞いて書き下しているものと思っていた。ところが英語の映画の場合はほぼ100%英語の台本があって、それを見ながら訳して行くと言う。考えてみれば当然なのだが、初めてその事実を知って驚いた。
そして、英語を職業としている人が、英会話はからっきしダメなどと平然と書いていることにさらに驚いたのだが、それは多分、字幕翻訳は単なる逐語訳の作業ではないという作者の自負の裏返しなのではないだろうか。そういう論点はすんなりと頭に入ってくる。
そして、終盤で作者がもうひとつ語気を荒らげて嘆いている点──それは昨今日本人の読解力が落ちて幼稚化しているということ。これもなるほどという感じで説得力がある。
こういう主張を通じて、この本が単にテクニカルなものに終わるのではなく、映画産業や文化を論じるに至っていることに、1映画ファンとしては好意を抱きながらこの本を読み終えたのであった。
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