『巡礼』橋本治(書評)
【2月4日特記】 実は橋本治の作品を読むのは初めてである。僕の頭にはなんか軽くてポップな読み物を書く人という印象があって、それに抵抗感があって一度も読まなかったのである。若いときは本当にそんな作品を書いていたのかもしれないが、何せ読んだことがないので何とも言えない。
ところが、この小説に限れば、軽くてポップなところなどどこにもない。となると、逆に読んでいてもの足りない気がして来るのだから勝手なものである。
そういうこともあって、最初のほうは読んでいてあまり乗り切れなかった。しかし、いつの間にか小説のリズムに取り込まれている自分がいた。
さて題材は、テレビのワイドショーなどでもよく紹介されている所謂「ゴミ屋敷」である。なんでそういう状態になるのか視聴者は理解に苦しむのだが、意外に日本の各地に似たような家がある。
この小説も、そういうゴミ屋敷をテレビ局が取材に来るところから始まる。そして、一旦時代を遡って、このゴミ屋敷の主である老人が如何にして今の状態に至ったのかを、その幼少時代から丹念になぞっている。
いやはや単に軽くない、ポップでないというだけではなく、読んでいてやりきれない気分になる小説である。そして、「ある日ある時こういう事件があって、それが理由で、それがきっかけでこの家はゴミ屋敷になりました」というような解りやすい話ではないのである。
人の一生というものはそれほど明瞭な転換点を刻むものではなく、気がついたらいつの間にか捻くれていて、次第に緩やかな坂を転げるように進んで行くものである。そういうことをきっちり踏まえて、むしろ淡々と物語りは進む。
主人公の忠市の生涯は、金に困ることこそなかったが、決して幸せなものではなかった。では、不幸であったかと言えば、それほどメリハリのついたものではなく、恐らく幸せとはどういうものなのか、その手触りを掴めないままゴミ屋敷にたどり着いてしまったと言うべきであろう。
よくもまあ、ここまで愚直な話を選んだものである。こういうストーリーを語るには作家の技量が必要になる。橋本治のはそういう技量を読者には表立って全く感じさせることなく、しかし、いつの間にかそういう技量を発揮している。
まるで真冬の寒い寒い日に、身も心もくたくたに疲れ果てるようなことがあった後、一日の終わりに漸く熱い風呂に浸かっているような感じのする終盤であった。ちょっと風呂に入ったくらいで一気に疲れが取り除かれたりするものではない。ただ、とりあえず身体はじんわりと暖まって、少し眠けを誘う──そんな小説だった。
今までこういう作品を書いてきた作家なのかどうかは知らない。ただ、今こういう小説を書く作家がいることに少し驚いてしまった。
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