ちょっとこんがらがってませんか?
【2月15日特記】 ここ2、3日、バンクーバー・オリンピックの日本男子スノボ代表の国母選手の「腰パン&ネクタイ緩め」ファッションを巡ってネット上もまたかまびすしい。
ただ、こういうときに(特に日本では)ありがちなことなのだが、それぞれの人がいろんな軸や観点からさまざまなことを言うので議論が噛み合わないのである。
この国母選手の件について整理すると、巷で云々されているポイントはいくつかある。
- ユニフォームをあんな風に着崩すことの是非
- ユニフォームを着崩したことをスキー連盟が問題にし、出場停止まで検討するに至ることの是非
- 記者会見での国母選手の言動(「反省してま~す」)の是非
- 上記2を承けて「国母選手を応援する会」までが自主的に中止されることの是非
- そもそも五輪選手の制服の着方にまで規律があることの是非
1)は単にファッション感覚の違い、あるいは制服というものに対する理念の違い。2)は権威や権力のあり方の問題、3)は権威に対抗しようとする者の心構えの問題、4)は権威や権力に阿ってしまう大衆の問題、5)はルールというもののあり方の問題である。
これらをいっしょくたにして侃々諤々やってしまうと、もうただの喧嘩みたいなことになってしまうのは請け合いである。
傾向として、1)を非とする人は却々2)以下の議論に至らない。逆に1)を是とする人は議論が5)のような極端なところまで行ってしまいがちだ。
で、そもそも1)と2)の組み合わせだけの問題であったのに、当の国母選手があんな態度の悪いところを見せてしまったので、この問題は非常に感情的な世界に引きずり込まれて、根が深くなってしまった気がする。4)もその余波だろう。
だから、本来はこんな風に整理して一つひとつ解きほぐして行くことが必要なのだが、今これだけヒートアップした状態を横に置いて下手にこんなことを始めると、国母選手を攻撃する陣営からも養護する陣営からも袋叩きに遭いそうな気さえして来る。
ま、だけど、本当は冷静に分析することが必要なのである。
この文章の目的はそういうことを指摘することであり、決して僕が国母選手をどう思うか等について語ることではない。
ただ、まあ、ついでなんで薄く小さく書いておくと、1)はまあそれぞれのファッション感覚で着こなすわけだから別にいいじゃないか、という感じ。制服というものが持っている利点や美点に対する思い入れは僕には全くない。
2)についてはTVの視聴者がとやかく言うのならともかく(国母選手本人もそのくらいのことは覚悟しているだろう)、連盟が言うべきことなのか? 校長先生じゃあるまいしバカバカしい。出場停止にまで思い至るのはちょっとどうかと思う。
3)はマズかったねえ。もうちょっとマシな受け答えをしておけば世間の風当たりも違ったろうに。
4)はなんだそりゃ?
5)はそもそもそんなものがあるのかどうか知らないが、中学校の校則じゃあるまいしそんなにこと細かく決めて縛ってどうするのか、と訝しく思う。極論すると、決めた服を着てりゃそれでいいじゃないかと思う。変な着方だなあと思う人もいるだろう。だったら変な着方だと批判すればそれで済むことだ。繰り返しになるけど出場停止とかそんな話なのか、これは?
という感じ。
ま、ちょっとこんがらがってるなあと思ったので、どういう風に整理するかの参考までに僕の感じ方を書いてみただけであって、あくまで「問題を整理しようね」というのがこの文章の趣旨である。
違う感じ方をする人たちを頭ごなしに否定する気はさらさらないし、この件でこのブログの読者の方と議論を戦わせるつもりも全くないので、その点だけは何卒よろしくお願いしたい。
落ち着いてものごとを整理しながら考えましょう。
ところで twitter に「国母を英訳するとカントリー・マアムか?」と書いている人がいた。こういう茶化しは僕は大好きである。一方そういうのをひとえに不謹慎だと思う人もいるのだろう。
いろんな人が一緒に住んでいるのが現代社会である。僕は前々から思っているのだが、もし社会の成熟度を測る尺度があるとすれば、それは多様性に対する許容量に他ならないのではないだろうか。
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