映画『板尾創路の脱獄王』
【1月17日特記】 映画『板尾創路の脱獄王』を観てきた。
名選手が名監督になる確率と名優が名監督になる確率はどちらが高いのだろう。いずれにしても、< プレイヤとして活躍したかどうか > と < 監督としても成功するかどうか > との間には何の相関関係もないのである。
だから、役者が撮った映画には落胆させられることも少なくない。今回も正直どうしようかなと思ったのである。ただ、まあ、板尾創路なら良いか、という結論になった。僕は役者・板尾を大変評価しているし贔屓もしている。
で、見てみると何も心配することはなかった。気負いのない作品に仕上がっている。
板尾は別に北野武になろうとしている訳でもないし、松本人志の後を追っている訳でもない。松本人志が「本人はたけしを意識してないというけど、あれは絶対意識してるよね」と言われがちなのに対して、板尾の映画はあまりにも堂々として板尾である。
むしろ北野武にも松本人志にも絶対真似のできない世界になっているところが、板尾のファンとしてはいたく嬉しい。
脱獄ばかり繰り返す男の話である。時代が昭和初期だったのでモデルとなる人物でもいたのかと思ったが、そうではないらしい。単に現在のハイテク刑務所となると脱獄という行為に現実感がなくなるということから、建物が木や漆喰でできている時代を選んだようだ。
その「脱獄王」鈴木雅之に扮しているのが板尾創路である。ほとんど台詞はない。表情だけで様々な感情や策略や状況を語る。そして、やたらと顔のどアップが多い。難しい役どころである。
しかし、この映画の主役は必ずしも板尾ではない。看守長であり、後に司法省の役人となった金村(國村隼)が主人公と言っても良いのではないか。金村はこの不思議な脱獄王の挙動から眼を離せなくなって、一度は出世話を蹴って看守の職に留まり、本省の役人に出世してからもまた鈴木の元に戻ってくる。
脱獄の手口は全てが描かれているわけではない。だから、"本格的脱獄映画"を期待した人には少し不満が残るかもしれない。専ら描かれるのは、金村の眼を通した鈴木という人物であり、ひいては鈴木に惹かれる金村本人なのである。
何度も脱獄しながら、鈴木は必ず線路沿いのどこかであっけなく「確保」される。それに気づいてしまったために余計に、金村は鈴木のことが頭から離れなくなってしまうのである。
──この謎は最後には解き明かされる。しかし、それを聞いても(そのこと単体では)「なるほど、そういうことだったのか!」と驚くほどのことではない。
驚くのはその後の展開である。
もう、脱力感が漲ってくる。
脱力感というのは本来身体から力が抜けて行く感覚なので、それが漲ってくると言うのは形容矛盾かもしれない。しかし、まさにそんな感じなのである。どこからか脱力感が湧き起こってきて、それが僕という人間の器より大きいものだから、そこから溢れ返ってくるような感じである。
いやはや、いかにも板尾らしい。かなり緊迫した脱獄映画が最後にはすっかり脱力映画に「落ちて」いるのである。
全く同じものが2度出てくる、ケレン味たっぷりのタイトルとか(タイトルに「板尾創路の」と入っているところが、また何とも言えず「らしい」のである)、何の脈略もなく突然板尾が歌いだすとか、そういう遊びはチョロチョロ。良い役者を揃えてしっかり組み立ててきっちり見せておきながら、最後になって「それはないやろ(笑)」である。
そうか、こういう映画が撮りたかったのか!
なお、パンフレットは事前に読まない方が良い。これはラスト近くまで書きすぎである。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
Comments
>脱獄映画が最後にはすっかり脱力映画に「落ちて」いるのである。
なるほど。「脱獄」→「脱力」。
ほんとうに、脱力感みなぎる映画でした。
Posted by: えい | Sunday, February 07, 2010 22:17