映画『ゴールデンスランバー』
【1月30日特記】 映画『ゴールデンスランバー』を観てきた。
結論から言うと、やっぱり原稿用紙で1000枚を費やした長編を2時間の映画にするのは無理があるということだ。
ここで描かれているのは国家権力に闇雲に追われ、狙われ、挙句の果てに殺されようとしている主人公の恐怖感であり、それになんとかかんとか対抗して行こうとする勇気である。読んでいて、「こんな馬鹿なことがあるか」という気もするのだが、読んでいるうちに、権力というものが構造的に内包している暴力性が、読者にとって現実感を伴ってくるのである。
2時間の映画に編集してしまうと、その部分を表現するのが一番しんどい。映画の観客から見ると、なぜ主人公がいきなり首相殺害の犯人に仕立て上げられ、ここまで執拗に追い詰められるのかが最後まで謎のままだ。
そして、主人公を助ける周囲の人間の心理を描くにしても、やはり2時間という枠はなかなか厳しいものがある。
中村義洋監督は伊坂幸太郎作品の映画化は『アヒルと鴨のコインロッカー』、『フィッシュストーリー』に次いで3本目である。その2本の映画ではあれほど上手く映画的に仕立て上げていたのに・・・、と思ってはたと気がついた。
僕はその2本の原作は読んでいないのだ。とすると、この映画も原作を読んでいない人にとってはかなり良い出来だったのかもしれない。ひょっとすると原作を読んでいるかいないかで満足度がかなり違う映画なのかもしれない。
僕は中村義洋監督のことをひそかに中村器用監督と読んでいる。どんな原作でも手際よく捌いて見事に映画化する。そして、多作である。
この映画も、原作を本当に見事に換骨奪胎した上で、原作のイメージは寸分違わず再現しながら、実は少しずつ構造の違う作品に再構築して行く。
この『ゴールデンスランバー』もあちこちに原作とは少し違う部分があり、上手く貼り合せた箇所もある。多分オリジナルだと思われる、ものすごく良い台詞もある。立派な出来だと思う。
原作の長い長い3日間は1泊2日に短縮され、原作ではあまり明示的に触れられていなかったビートルズのタイトル曲に映画は深くコミットしている。──そういう諸々を評価するとしたら、やっぱり「巧い」ということになるだろう。
しかし、いくら巧く処理してあっても、原作を読んだ者にとっては、所詮換骨奪胎されたものなのである。この辺りをどう評価するかではないだろうか。
濱田岳を筆頭に、堺雅人、竹内結子、大森南朋、石丸謙二郎、渋川清彦、貫地谷しほりなど中村義洋作品も2度目3度目の役者が並んでおり、それに加えて劇団ひとりや香川照之、柄本明、ベンガル、伊東四朗、永島敏行、ソニン、でんでん、安藤玉恵など非常に芸達者なところを揃えた素晴らしいキャストだった。
音楽を担当しタイトル曲もカバーした斉藤和義の『幸福な朝食 退屈な夕食』がエンディングに使われているのだが、これがなかなか良かった。
中村監督が伊坂幸太郎から映画化を任されたのはこれが3度目であることとか、伊坂幸太郎とお互いファンであり影響を与え合った斉藤和義が音楽を担当していることとか、伊坂幸太郎がそもそも濱田岳をイメージして描いたキルオをこの映画ではそのまま濱田が演じていることとかを考え合わせると、伊坂幸太郎のこの映画に対する信頼感・満足度は大変高いのではないだろうか。
やっぱり巧いのかな、やっぱり物足りないのかな、書いているうちによく判らなくなってきた。面白いのは面白い。ただ、堺雅人の演技は少し鼻についてきた感じはある。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
Comments
メジャー出身ではない、職人監督だなとは
けねたよろ思っていましたが、なるほど。
器用ですか?
だからみんな彼を起用するのかな?
Posted by: えい | Sunday, February 07, 2010 22:20
> えいさん
なんですかね、その、オヤジギャグに対するオヤジギャグ返しw
Posted by: yama_eigh | Sunday, February 07, 2010 22:27