『お前はただの現在にすぎない』萩元晴彦・村木良彦・今野勉(書評)
【11月16日特記】 昨年40年ぶりに復刊した名著である。いや、名著であると言うよりも怪物のような著述である。特にテレビの世界に身を置く者にとっては──。
今僕はこの本を読んで俄かに何かまとまりのあることをここに記すことは到底できそうにない。できるのはせいぜいこの本からいくつかの断片を抜き書きするくらいのことである。
「お前はエネルギーを持っているや否や。お前は柔軟や否や。お前は創造的であるや否や」(38頁)
「送り手・受け手という関係ではなく対等の人間としての関係の中で真の対話・連帯をどうつくり出せるのか、困難なことですが不言実行のくりかえしをしたいと思っています」(194頁)
「ソルボンヌの学生が、“所有のためにではなく、存在のための変革を”と叫ぶと同時に、“シジュフォス”と書きつけざるをえなかったのは、いわば、自らの行為の中の、決して完結することのない徒労を見ぬいていたからであろうが、われわれは、未だ、それに該当する言葉をもたなかった」(244-245頁)
「<テレビジョンとは何か>という問いは、普遍的な答え、テレビとは○○だということを要求するのではなく、その普遍を求めて、個がどう迫るかという問題です」(398-399頁)
「TVの最大の武器『即時性』を活かした『生』番組でも、『ゴージャス』でなければいけないと思います」(446頁)
「ぼくらは、テレビが<時間>であることを知っている。テレビが<時間>であることのさまざまな意味を知っている」(447頁)
「ひとつの問い、ひとつの答え、それにすべてを仮託するつもりはない」(489頁)
「もし、『テレビ』がぼくらの前に立って、『降伏せよ、哀れな夢想者。おまえが長いあいだ待っていたテレビジョン、おまえの<未来>であるこのわしがやってきたのだ』と叫ぶなら、ぼくらもまたトロツキーのように叫び返さねばなるまい。『お前は未だテレビならず。お前はただ現在そのようにあるだけだ』と」(491頁)
これは直接的には1968年のTBS闘争の記録であるが、必然的にそこでは成田空港建設反対闘争、ベトナム戦争、全共闘運動、パリ五月革命、ソ連のチェコ侵入などの背景が縦横斜めに絡まっている。
確かに時代がかってはいる。古い、そして観念的で青臭い、と一蹴されてしまいそうな要素はある。しかし、TVはこの半世紀を超える歴史の中でこれほど深く真剣に考え、議論したことはあっただろうか?
これほど自省的な取り組みを実践的に続けて来ただろうか?
これほど苦悩に満ちて、自己矛盾の中でもがきながら、それでも何かを作り出そうとしてきた時期があっただろうか?
今テレビの価値の低下が云々される中で、再びこの本がひときわ大きな意味を持ち始めたような気がする。雑多で難解な書物ではあるが、難解であるからと言って、我々はこの真摯さをなおざりにしてきたのではないか?
TVの世界で働く者全員が自分に対する問いとして、この本を手に取らなければならない。
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