『宵山万華鏡』森見登美彦(書評)
【10月15日特記】 森見登美彦のデビュー作『太陽の塔』を読んだ時に、「この作家は早晩消えるだろう。いや、そもそも第2作が書けないんじゃないか」と思った。
それはロザンという漫才コンビが出てきた時にも思ったことなのだが、「京都大学」というワン・コンセプトでは後が続かないだろう、ということだった(もっともロザンの2人のうち京大卒なのは宇治原だけで、菅のほうは大阪府立大中退だが・・・)。
結局、ロザンはしぶとく生き残り、森見のほうも次作『四畳半神話体系』が出た時には「やっぱり」と思って僕は読まなかったのだが、その後も彼は書き続け、ついに『夜は短し歩けよ乙女』(これは久しぶりに読んだ)で花開いた感がある。
その作品で森見は従来の京大生を戯画化しながら京都と青春を描くというところから、少し幻想的な世界に踏み出して見せたのである。
その時には「ああ、こんな森見もいるのか」と思った程度だったのだが、この『宵山万華鏡』に及んで彼が完全に幻想譚の手法をものにしているのに驚き、そしてひょっとするとこれが彼が究極的に書きたかった世界なのかもしれないという気がしてきた。
舞台はやっぱり京都ではあるが、京都大学の学生あるいは卒業生と明記された人間は出てこない。そして、タイトルから解るように祇園祭の時期である。
そこには6つのお話が並べられているのだが、京都の同じ辺りの同じ宵山の一夜を6つの角度から切り取ったような構成で、ちょうど万華鏡の中に見える六角形の6つの辺のように思える。
その6つのうちには、今までの森見の小説の中に出てきそうな、少しデフォルメされた人物たちによるややバカバカしい青春譚もあるのだが、その同じ出来事を裏から見ると、そこでは別の人間が別の夢想めいた出来事に巻き込まれてしまっているのが見えたりして、とてもとても不思議な気がしてくる。
結局その不思議は何も解明されないまま終わってしまうのだが、それがそのまましっかりと余韻になって行くところが森見の新しい真骨頂になってきている。
ただの不思議な小説ではない。ああ、そう言えば、子供の頃なんかこんなことがあったような気がするという風に思う(実際には子供の頃そんな空想に耽ったことがあるということなんだろうけど)、そんな小説に仕上がっているのである。
そう、まさに「仕上がっている」という感じがする。そこがきっと森見の力量なんだろうと思う。
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