『「空気」と「世間」』鴻上尚史 (書評)
【9月5日特記】 実は鴻上さんとはかつて仕事上で浅からぬご縁があり、そういうきっかけもあって芝居も何度か拝見しているが、考えてみたら今まで物書き(脚本家は別)としての鴻上さんを意識したことはなかった。
それで、そういう流れから本屋で手に取ってみた訳だが、数行読んだだけでこれはなかなかのもんだ、と膝を打って即レジに並ぶことになった。
所謂「KY」が嫌われる時代である。しかし、「空気読めないのか!?」と咎められても、その空気がなんだか解っていればそれはそこそこ読めるはずで、それが解らないから読めないのである。その辺の仕組みをこの本は巧く解明している。曰く、「世間」が流動化したものが「空気」である、と。
土台となっている分析は鴻上さんのオリジナルではない。阿部謹也、山本七平、冷泉彰彦など多くの研究者/文筆家からの引用がある。しかし、これは「受け売り」というレベルに留まってはいない。鴻上さんによって充分消化された上で発展的に引かれている。
むしろ鴻上さんの目の付けどころの面白さと深い考察によって非常に説得力のあるものになっていると思う。
禁煙条例に関する公聴会で壇上の分煙派に対して「人殺し!」と叫んだ女性に対する記述(pp132-134)、「世間原理主義者」が1週間の休暇を取った後、会社に出てきて必ず口にするマイナスな発言に対する記述(pp191-193)など、読んでいて思わず「そうそう!」と声が出そうになってしまう。
そして、社会・世間・空気の分析から意外にもインターネット社会の考察に大きく踏み出して、そこで著述を閉じている。テーマが非常に現代的になった。
どうなんだろう。僕は中学時代からずっとこの本にあるような考え方で生きてきて、つまり意識して「世間」を壊し「世間」から抜け出すべく生きてきたつもりなので、この本を読んでも単に「そうそう!」と頷いて意を強くするだけのことなのだが、そうでない人がこの本を読んだ時に「あ、そうだったのか」と気がついて、「世間」や「空気」の呪縛から勇気を持って抜けだすきっかけになったりするのだろうか? そうだったらいいなあと思うのである。
鴻上さんが「おわりに」に書いているように、いつまでもそんなものに塗れて、「差別的で排他的」な「世間」から弾き飛ばされるこたあないのである。
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