『IN』桐野夏生(書評)
【9月17日特記】 読み始めてすぐに、あ、これは壇一雄だ、と思った。自然主義文学ではなく無頼派の作家を思い浮かべたのである。
作家の緑川未来男は妻と3人の子供がありながら、妻の千代子とは違って所帯染みず都会的な雰囲気のある○子との浮気を続け、2回も堕胎させている。千代子には隠し通すつもりでいたのだが、日記を盗み読みされて全てばれてしまい、そこからが修羅場になる。
それでも未来男は○子と別れるつもりはなく、さりとて千代子と別れて○子と所帯を構えるつもりもさらさらなく、あくまで都合の良い今の関係を続けようとする──。
そこには身勝手な男の心情が見事に描かれていて、女性の作家でよくここまで書き込めたものだと驚いた。だが、これはこの小説のメイン・ストーリーではなく作中作の小説『無垢人』なのである。
この小説『IN』の主人公は女流作家のタマキであり、彼女は夫と子供がありながら、同じく妻子持ちの編集者・青司との関係を続けている──ちょうど○子と未来男のように。そして、いい加減で身勝手な未来男と気性の激しい女2人と同じように、優柔不断な青司とタマキの間にも諍いは尽きず、波風の絶えない不倫関係である。
タマキは緑川未来男著『無垢人』に材を取った文章を物しようと考えていて、そのための取材を続けている。特に興味があるのは、この小説の中で唯一実名で書かれていない「○子」とは一体誰なのか、ということである。○子の正体を求めてタマキの取材旅行は続く。
なお、この時点では激しい衝突を経てタマキはもう青司とは別れている。青司は回想として未来男の女遍歴の間に別のエピソードとして放り込まれている。
なんというえげつない構成だろう。この精緻な仕掛けがこの小説をとてつもなく深いものにしている。正直言って、この作家、こんなに巧い作家だったっけ?という気さえしてきた。
デビュー以来強い女たちを描くことの多い作家だったとは思うのだが、でも、その強さはどちらかと言えば「おっさん臭い」、つまり「男に匹敵するような強さを持った女」という印象だった。
それがこの作品で描かれている女は恐ろしいぐらい女の怖さを持っていて、男もまたげっそりするほどの男の身勝手さを体現している。それはひょっとすると旧い価値観に縛られた存在が描かれているだけなのかもしれないが、リアリティとしてはこちらのほうが遥かにあるように思える。
そして、○子の正体を求めるタマキの取材の前に現れる女たちひとりひとりがまたそれぞれに怖い。そして、○子の正体は少しずつ詰められて行く。
筋の運び、結びも見事で底なし沼のような空恐ろしい小説世界ができあがった。
『IN』というタイトルを見て、彼女の出世作『OUT』をもじってあるのはすぐに分かったが、これはタマキが今連載している作品のタイトル『淫』とも通じている。またこの小説が入れ子構造になっていることにも通じたINなのだろう。
外へぶちまけるOUTよりも、中に入って来られるINのほうが圧倒的に怖い──僕はそんな感想を持った。
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