『「坊っちゃん」の時代』関川夏央・谷口ジロー(書評)
【8月26日特記】 手塚治虫賞を獲ったほどの作品だから僕なんぞがとやかく言うこともないのだが、この作品が優れているのは夏目漱石の鬱屈を正しく描いているからだと思う。
漱石は英国留学中に、英国社会に対する嫌悪感と日本へのホームシックから強迫神経症を病んだ、と一般には言われているし、この本にも凡そそんなことが書かれている。
だが、漱石の鬱屈がそれほど簡単に図式的に解いて片づけられるようなものではなく、そこにはその時代特有の、その頃の日本や日本人特有のいろんなことが絡んでいるのだということを、この本は正しく描き出して見せてくれているのである。
多くの文献に当たって考証されたようであるが、作者自身が明らかにしているように、必ずしもここに書いてある全てが真実という訳でもなさそうだ。しかし、それにしても、漱石の同時代及び周辺にはこれだけ有名かつ傑出した人物が集い、ともに語っていたのかと思うと驚きを禁じ得ない。
正岡子規や森鴎外と交流があったことぐらいは知っているが、漱石がラフカディオ・ハーンの後任教授であったとか、一介の車夫から後の労働運動家・荒畑寒村までが夏目亭に出入りしていたとか、伊藤博文暗殺犯の朝鮮人ともすれ違っていたとか、弟子の森田草平と平塚雷鳥が一時恋愛関係にあったとか、次から次に語られるエピソードを読んで世間の狭さにびっくりというか、まさにこういう交友関係こそがこの作中で言われている「エリト」のあり方だったのだろうと思う。
そして、そういうところが作者の言う「明治人は現代人よりもある意味では多忙であった」ということなのではないだろうか。
ものを調べて作品に著わすに当たって決定的に問われるのは観察力でも分析力でもない。あるいは最終的に要求される表現力が鍵となるのでもない。枢要なのは、観察して、分析したあとで、それを再構築する能力である。そして、きっちりと再構築されたものだけが初めて表現力の試練を受けることになるのである。
再構築するとは、どんなに大きな要素であってもあくまで部分でしかないものをバラバラに描くのではなく、正しく全体を描くことである。とは言え、全体は決して描き切ることのできるものではない。だからこそ、その描き切ることのできない全体に近づくために、何を捨て何を採るのか、そして、選んだものをどう繋げるのか、つまりその再構築の方法自体が問われるのである。
当然再構築する際に落としてしまった部分が問題にされることもある。この本で言えば漱石の家族のことがごっそりと抜けている(これは従来の研究でありえなかったことではないだろうか?)
しかし、全てを採る紙面はなかったのだろう。これはこれでこの本の個性になっているし、そのことによってこの本が描いている時代性の色鮮やかさは少しも褪せたりしてはいない。いや、全体として鬱屈を描いているのだから「色鮮やかさ」でもないのかもしれない。
人を描いているようで時代の色が見えてくる本であった。
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