映画『扉をたたく人』
【7月19日特記】 映画『扉をたたく人』を観てきた。
この映画にはいろんな見方があるだろう。
いろんなシーンがある中で、僕はウォルターがタレクから初めてジャンべを習うシーンが一番好きだ。最初こわばっていたウォルターが少しずつリズムに乗ってきて上気して来る。あの感じがとても良かった。
だからと言って、「移民問題は単なる背景であって、音楽に国境はないということこそがテーマだ」なんて短絡的なことを言うつもりはない。
この映画は入国管理の問題については解決策を示さない。希望のないエンディングである。一方でウォルターがタレクから音楽を教わるところでは希望を感じさせてくれる。──それがこの映画の全体像なのだと思う。
解決策を見つけられないまま、あるいは、解決策は見つけられなかったけれど、タレクも、タレクの母のモーナもいなくなってしまった後、NYの地下鉄の駅構内でウォルターはひたすらアフリカの太鼓を叩き続けるのである。それがこの映画なのだと思う。
ちょっと先走り過ぎた。あらすじぐらい書いておこう。
大学教授のウォルターはピアニストであった妻に先立たれて以来、何をするにもやる気が起きない。嫌々ニューヨークの学会に出ることになり、マンハッタンに空き家のままおいてあるかつての住処に辿りついてみると、そこには見知らぬ移民のカップルが住んでいた。
騙されて「貸してもらっていた」のであるが、2人とも不法滞在なので警察に通報されると面倒なことになるので意外に揉めずに彼らのほうが出て行く。
このカップルなのだが、2人ともアフリカ系や中南米系の同国人というのではなくて、男がシリア出身でジャンべ(アフリカの太鼓)奏者のタレク、女がセネガル出身で自分で作ったアクセサリを露店で売って生計を立てているゼイナブ──という組合せになっているところが如何にも人種のるつぼNYらしくて良い。
ゼイナブに会ったことのなかったタレクの母モーナが初めて遠目にゼイナブを見た時に「あの娘がそう? 真黒だわ」「本当に真黒だわ」と呟くところなんかも如何にも「らしい」。
結局、一旦は退去したタレクとゼイナブを哀れに思ったウォルターが追いかけて泊めてやることにし、ひょんなことからジャンべを教わった辺りから2人に友情が芽生える。
そして、これまたひょんなことからタレクが逮捕されて入局管理局の拘置所に送致されてしまう。不法滞在であることに間違いはない。ただ、タレクの場合は手続き上の小さな不備があっただけで、昔のアメリカ合衆国であれば大目に見られてきたはずだったのだ。それが 9.11 以来政府の政策が厳格化してしまったのである。
結局、ウォルターは弁護士を雇う。そこへタレクの母モーナが現れ、今度はモーナと2人の生活が始まる。そして、とうとうウォルターは前々からもはや何の興味も感じられなかった大学の講義を今期はひとまず休講にしてしまう。
ま、これだけ読んでも面白くもなんともないだろうが、あとは映画を見てほしい。いろんなエピソードがちゃんと機能してまとまりのある作品になっている。
そして、いろんなことを考えさせてくれる映画になっている。
僕はあまり教科書臭い捉え方で見てほしくはない気がする。これは説教臭い映画ではない。タレクはウォルターにジャンべを教える際にこう言う:「頭で考えてはいけない」。
そして、努めて頭で考えず、ウォルターは無心でジャンべを叩く。知らず知らずのうちに顔が笑顔に変わっている。
これはそういう映画だと思う。と言われても何のことだか解らないと言われるかもしれないが、やっぱりこれはそういう映画なのだと思う。
主演のリチャード・ジェンキンスの名演と、NYの僕らがあまり知らない地域の映像がとても印象的であった。
原題は"the Visitor"。これを『扉をたたく人』と訳したことがあちこちで褒められているが、僕はあまり名訳だとは思わない。ただ、昨今ありがちな『ザ・ビジター』という邦題にしなかったことは評価したい。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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