『墜ちてゆく男』ドン・デリーロ(書評)
【7月15日特記】 これを読めばアメリカ人にとって9.11同時多発テロがどれほどとんでもないものであったかが分かる。いや、これを読んでも日本人には解らない、少なくともアメリカ人と同じ感情を共有することはできない、ということが解るのかもしれない。
あの日、いやしくもテレビ局の編成部員であり緊急事態担当の1人であった僕にとっても、あれは途轍もなくショッキングな事件だった。でも、アメリカ人のショックは多分、そんな風に言葉で表せるレベルを遥かに超えていたということなのだろう。
だから、デリーロは事件から何年も経ってからこんな長編小説を完成せざるを得なかったのだろう。
あの瞬間、WTCで勤務していたキースは九死に一生を得た。そして、手には誰のものか判らないブリーフ・ケースを持ち、無意識のうちに別居中の妻の家に戻っていた。
一旦は破局を迎えたはずの夫婦だったが、妻のリアンもまた「そばに誰かいてくれること」を無意識に求めており、まるでなにごともなかったかのように息子のジャスティンとの3人の生活が戻ってくる。
やがて、キースはブリーフ・ケースの持ち主を突きとめて訪ねてみるとそれはアフリカ系の女性で、あの日のことを語り合ううちに肉体の関係を持ってしまう。
──などとあらすじを書くと安っぽいドラマにしか見えないのだが、この小説は安っぽくもなければドラマでさえない。むしろドラマにならない苦々しさを延々と描いている感がある。
読み始めて暫くは、9.11に対するアメリカ人のトラウマという面ばかりが目立ち、デリーロの小説としてはちょっと単純構造すぎるのではないかという気がする。
アメリカではデリーロの最高傑作という評価もあったようだが、結局はあの極度に複雑な重構造を描いた『アンダーワールド』を超えられなかったのではないか、という気がした。なんと言っても「9.11を予見した」と言われている『アンダーワールド』である。
ところが、気がついたらいつの間にか、物語は非常に複雑に編み込まれた構造に入っていた。
ボランティアで認知症の老人の世話をしながら、彼らがあの日何をしていたかを聞いているリアン。夫婦破局の元凶であったはずのギャンブルの世界に戻って行くキース。リアンの母ニナとその恋人であり元ドイツ過激派であったマーティン。ビン・ラディンをビル・ロートンと憶え間違ったまま次の飛行機が飛んでくるのを監視しているジャスティンとその友だち。そして、WTCから落ちる男の真似のパフォーマンスをする男。さらに、9.11の実行犯であるアラブ人。
これらの話がぐちゃぐちゃに絡まってくる。
1行空いて次の段落に入った時、作者は固有名詞ではなく代名詞のまま暫く話を続ける。読んでいる者は、その「彼」がキースなのかマーティンなのかテリーなのか、「彼女」がリアンなのかニナなのかフローレンスなのか、しっかり判断がつかないまま数行から十数行読み進んで初めて「キースは」などという記述に突き当たるのである。これはわざとなのだろう。
個人の話がそういう風に渾然一体に組み立てられているのである。にも拘わらず、個人の小さなエピソードに圧倒的なリアリティがあり、9.11という大きな事件にはまるで現実感がない。これが実感なのではないだろうか。
最後の章では「彼」という主語で機内のテロリストを描いておいて、行空けもなく次の段落ではいきなり「彼」という主語がキースになっている。
──この辺のやりきれなさがどすんと胸に響いてくるのである。とてもとても重い読後感がある。そして、その重さをどうすれば良いのかは多分今もって解らないままなのである。
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