映画『Dear Doctor』
【6月27日特記】 映画『Dear Doctor』を観てきた。西川美和監督。カメラマンはずっと北野武映画を手掛けてきた柳島克己である。
こういう映画を観ると、「『映像的である』とはどういうことなんだろう?」という深い思考に囚われてしまう。──脚本があって、役者がいて、台詞のやり取りがあって映画ができるのだが、決してそれだけではない。
非常に解りやすい「点」の例を挙げれば、それはこの映画における「流し台で溶けて行くアイスキャンディ」であり、同じ監督の前作『ゆれる』であれば「倒れたお銚子から零れる酒」である。あるいは、この映画に挿入される棚田の稲穂を風が揺らすシーンもそうだろう。
それはストーリーの上では要らないシーンである。でも、そういうシーンを挟みこむことこそが極めて映像的な手法であり、解決策であり、下手すると常套手段になってしまうのである。
映画にはそういうシーンがたくさんある。上の例ではそれは点だが、線として機能するものもあれば面として機能するものもある。
井川遥が扮する娘が、八千草薫が扮する母の体調不良を見破って「胃のお薬飲んでるの?」と問い詰めると、ちょっと中途半端な間があって、「さすがはお医者様ね」と八千草が答える。──こういうのも非常に映像的である。
と言うのは、この場面での登場人物の心境を考えるとここでこのぐらいの間が空くことがふさわしいからというだけではなく、この間が観客に対してその瞬間の八千草の表情を充分に見せるからである。
それより暫く後のシーンでは、縁側からガラス障子越しにこの母娘を押さえた2ショットがあるのだが、母と娘がそれぞれ別の枠に嵌ったガラス板越しに切り取られている。こういう暗示の力も映像的手法である。
笑福亭鶴瓶が扮する医者が、八千草の家でTVの野球中継のSBOテロップについて教えている。その後のシーンで、鶴瓶がこの僻村での医療活動を野球になぞらえて語る。その後のシーンでは娘の心配をよそに、八千草が奥の部屋でTVでプロ野球を観戦している。──こういう一連の流れも映像的だ。
映画が映像的であるのは当たり前なのだが、西川美和という監督はとりわけ映像を意識させてくれる。自分で脚本を書く人であり、そのテーマと言い、ストーリー展開と言い、台詞回しと言い、大変巧い人なのだが、やはりこの人の凄さは映像にあると思う。
4年前まで無医村であった村にやって来て、村中のみんなに感謝され慕われ尊敬されている医者・伊野(笑福亭鶴瓶)が突然失踪する。県警から刑事が2人(松重豊、岩松了)やって来て看護師(余貴美子)や研修医(瑛太)、薬品会社の営業マン(香川照之)らに事情を聴いて回るうちにいろんなことが判ってくる。
──これ以上筋を書いてしまうと台無しになってしまうという作品ではない。見ていると大体先の想像がついてしまうが、それで面白さが削がれるような映画でもない。だから、もう少しストーリーや設定を紹介しても構いはしないのだが、自分の眼で見ながら順に腑に落ちて行くのが一番良いと思い、これ以上は書かない。
冒頭のシーンで田舎道の道端に落ちていた白衣が伊野の失踪を物語る最初の映像である。だが、これは単にそういうことを解らせるための要素であったのではなく、映画を最後まで見ると、何故逃げ出した伊野がここで白衣を脱いで、そしてここに捨てたのかということが明らかになる。
この辺の繋がり具合が西川美和の猛烈に巧いところである。
ストーリーだけ追うなら『ゆれる』よりも遥かに単純で、わざとらしい感じさえするかもしれない。たが、この映画の極めて映像的な面に、僕らの心は前作よりも揺れるのではないだろうか。
テーマはこうだ、というようなまとめ方はしたくない。このなんとなくもやっとしたまま終わってしまう感じにこそリアリティがある気がする。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。


Comments