映画『おっぱいバレー』
【5月5日特記】 映画『おっぱいバレー』を観てきた。原作の小説があり、その原作は実話に基づいているのだそうである。
しかし、僕らの中学生時代を考えると、美人の教師に対して「じゃあ、試合に勝ったらおっぱい見せてもらえますか」なんてとてもじゃないけど口に出せる奴はいなかった。シャイ、と言うよりもうちょっと鬱屈した感じもあったりして。
いや、クラスに1人ぐらいはそんなことを言える奴がいたかもしれないが、それは大体がちょっと悪ぶっている奴で、単に教師を困らせるために、困惑している女教師の反応を楽しむために言っているだけで、本当におっぱいが見られるなんて考えてもいなかったはずだ。
そういうことを考えると、最近の中学生は随分明るく軽くなったものだ。それと、こういう純朴な中学生を東京や大阪で見つけるのはもはや不可能で、多分地方都市でしか起こり得ない話だろう。
──というのが映画を見に行く前の僕が考えていたことなのだが、映画が始まってみると、ん?これはいつの時代だ?っちゅう感じで、バックで流れてる歌謡曲/ニューミュージックの数々もそうだし、中に出てくるインベーダー・ゲームも全部僕が大学時代にはやったものだ。
ということは、綾瀬はるかが扮する教師は僕よりか少し上の年代であり、中学生たちは僕より数歳下の年代ということになって、途端に「はて、どちらに肩入れして見れば良いものやら」という気になった。
で、調べてみるとこれは監督が自分が中学生だった時代に再設定したものだそうな。舞台が北九州になっているのも映画のオリジナルで、原作では静岡のどこかとか。やっぱり、こういう中学生はかなり田舎でないといないだろう。で、原作ではいつの時代になっていたのか? 調べてみたのだけれど判らなかった。
しかし、それにしても、自分が積極的に提案して約束した訳でも何でもないとは言え、生来の押しの弱さ・流されやすさが災いして、生徒たちが次のバレーボールの試合に勝ったら先生のおっぱいを見せてもらえると思い込んで、初めて部活に打ち込み始めたとしたらどうするか? そして、それが世間にばれて「あなたは本当に生徒たちにそんなことを言ったのか」と迫られたらどうするか?
──これは人生の命題としては却々高度な難問である。
今の時代にそんなことがあればどうなるかは目に見えている。女教師がその非常識ぶりを激しく糾弾され、場合によっては淫乱教師のレッテルを貼られて放逐されて終わりだろう。
だが、映画の中で1人の生徒の親に扮した仲村トオルが言っているように「別にいいじゃないですか」という考え方があっても良いし、どうもこれはこれで教育的効果があったという風に見えてしまう。
さらに校長室で「本当に言ったのか?」と問い質されたときに、子供たちの努力を無にしないためにも、ここは「そんなこと言うわけないじゃないですか」と方便を使うか、それとも子供たちの前で嘘をつくことだけは避けるのか──とても難しい選択だ。
ここに至るまでのストーリーで、この女教師の中学時代と前の赴任先の学校での2つの経験が織り込まれており、これがあることによって上記の選択がなおさら難しいものになっている。この辺り、大変よく書けた脚本だと言える(脚本は岡田惠和)。
全体としては何の変哲もないがドラマの教科書通りという印象で、見ていて驚きはなく面白味はないものの、しっかり拵えてある。だからそこそこの感動もある。
1979年という時代に拘ってロケもセットも衣装も懐かしさ溢れるが、ちょっとそっち方面に注力し過ぎたかなという感じもしないではない。ほとんどずっと鳴りっぱなしの70年代後半のポップスも少しウザい。
まあ、でも、本当に頭の中の70%くらいがエッチなことだった少年時代が甦ってくる。共感が湧く。そう、おっぱい見るためでも良いではないか。それが目的だからこそあれだけ真摯に努力ができたんだ。
しかし、僕の場合、興味は上半身にはなかったけどな・・・。
まあ、これがおっぱいだからこそ明るいドラマになったんだろうけどね。
青木崇高、光石研、田口浩正、石田卓也、大後寿々花、小島藤子ら脇も良かった。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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