故・三木たかし氏に
【5月12日特記】 昨日、作曲家の三木たかし氏が亡くなった。新聞報道を見るまで黛ジュンの実兄であることはすっかり忘れていた。
先ごろ亡くなった忌野清志郎氏と比べると扱いが随分小さいように思うが、これは単に表舞台に立つシンガーと裏方であるコンポーザーの差であり、日本の音楽界において彼が果たした役割もまた果てしなく大きかったことは間違いない。
僕が読んだ記事では、代表曲として石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』が一番に書かれていた。僕も確かに『津軽海峡・冬景色』は昭和の演歌を代表する曲であるとは思う。しかし、これが三木たかしの1曲だけ挙げる場合の代表曲だとは思わない。
その他には岩崎宏美の『思秋期』やテレサ・テンの『つぐない』『愛人』などが挙げられていたが、これらも違うと思う。
僕は彼の特徴は素直さとわざとらしさの両面を併せ持っていたことだと思う。
わらべの『めだかの兄妹』とか『もしも明日が・・・』みたいな何のけれん味もない曲を書くかと思えば、一方で西城秀樹の『ブーメランストリート』のわざとらしい変拍子(3/4拍子から4/4拍子。ブーメランだからやっぱ3拍子か、みたいな安易な発想を感じる)や清水由貴子の『お元気ですか』の曲の最後での突如の転調みたいなことをやってくれる。
僕は特にこの人の転調が好きで、例えばキャンディーズの『哀愁のシンフォニー』なんかは鮮やかな並行調転調なのだがやっぱりどこかわざとらしい感じがするし、西城秀樹の『ラストシーン』では「ほら、どうじゃ? さすがに気がついたと思うけど、始まっていきなり転調しといたぞ」みたいな感じが好きだった。
(ちなみにこの2曲のうちのどちらかが三木たかしのベストであると言うのであれば、それは同意できるチョイスである)
多分、根が素直な人が一発仕掛けようとすると、こういうわざとらしい作品になるのだと思う。しかし、決して(こんな風に書くとファンは怒るかもしれないが)同時代の作家である森田公一みたいに安っぽくなってしまわないところがミソである。
そして、見事に詞を活かす能力があったと思う。それは荒木とよひさと組んだわらべの上述の2曲を聴けば明らかだろう。
そして、体内にしっかりとメロディ・ラインを持っている人だったと思う。複雑ではなく、(何か仕掛けようとしない限り)飛びぬけて目立つ部分もないが、でも聴けば聴くほど身に沁みてくるメロディ・ラインを。
あべ静江の『みずいろの手紙』を、伊藤咲子の『乙女のワルツ』を聴けばそれが解るだろう。
そして、多分、僕が1曲か2曲だけ挙げるとすれば、それはテレサ・テンの『時の流れに身をまかせ』と『別れの予感』だろうと思う。彼の真骨頂は、こういう演歌とポップスの境目みたいな領域にあったのである。
有名人が亡くなると、僕みたいな無名人も含めていろんな人がこんな文章を書いてくれたりするものだ。いいなあと思う。これも1つの供養の方法だと思う。
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