『猫を抱いて象と泳ぐ』小川洋子(書評)
【5月11日特記】 美しいものを見出すのが本当に巧い作家だと思う──数式、ブラフマンなる小動物、カバに乗った少女、そして今回はチェス。──そういうものを見つける作業も文学が求められる使命のひとつなんだなあとつくづく思う。
今回の特徴はいつもに増して無国籍だということ。読んでいて、あれ、これはどこの国なんだろうか、と惑わされる。デパートの屋上に遊園地があったり食堂にお子様ランチがあったりするのは日本に決まっていると思うのだが、しかしどこか日本っぽくない。
『ミーナの行進』における「芦屋」のような地名も出てこないし、登場人物の名前が一切語られない(主人公のリトル・アリョーヒンを始めとして全員があだ名か役職名で呼ばれている)ので、なおさら場所を特定するヒントが得られない。
登場人物の眼や髪の色についての描写もないからやっぱりどこの国の人間だか分からない。
だいいち、いつの時代であれ日本だったらこんなにチェスが盛んで、ここまで深くチェスが理解されているわけがないという気がしてくる。じゃあ、どこなのか?
そもそも小川洋子の作品は無国籍と言うよりも多国籍、いや、むしろ重国籍とでも言うべきいくつかの国籍が溶け合ったような舞台になっていることが多いのだが、今回の場合は言うならば「国籍の匿名性」みたいなものを強く感じさせられた。
つまり、作者が意図的に国籍を秘匿して、どこの国だか判らないように書いているような作為を感じるのである。
そして、そのことに思い当たった時に、それがそのままこの主人公リトル・アリョーヒンの匿名性に繋がっているのだということに気づいた。いやはや、この作家はいつも見えない糸で作品を織りなしているのだ。改めて感心した。
リトル・アリョーヒンは伝説のチェス・プレーヤーのアリョーヒンになぞらえて作られた人形“リトル・アリョーヒン”の中に入り、レバーを操作してチェスを差す。その時のリトル・アリョーヒンは完全に匿名の存在になる。
それはチェスという競技がプレーヤーの名前など必要としていないからである。そして、そういう設定を使って、著者はチェスが何と美しいゲームであるかを見事に書き尽くして見せる。しかし、ひとえにチェスの美しさだけを描きだそうとして作られた小説に見せかけて、実は人間の美しさについてひっそりと静かに書き遺しているのである。
とても良い話である。ちょっと敵わないなあ、という気がする。
そして「猫を抱いて象と泳ぐ」というタイトルも秀逸。
これからの読む方に対して、書評であまり予備知識を与えたくない。予備知識も先入観もゼロの状態で、想像力をフル回転させながら、あなたもチェス盤の下で猫を抱いて象と泳いでみてほしい。
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