映画『GOEMON』
【5月9日特記】 映画『GOEMON』を観てきた。まあ、一応見とくかな、って感じで。で、完全に思った通り、予想通りの映画だった。
この先この文章では貶しっぱなしになると思うので、最初にちゃんと褒めておくと、まあ、それなりに面白い映画ではありましたよ。ハイ、それなりに。
戦国時代という設定でありながら、髪型も衣装も建物も全部現代的、いや、いつの時代のどこの世界か分からない、という描き方はアリではあるのだが、この手の試みは数多くの先人がやってしまったことなので見ていて驚きはない。
目新しさに欠けるのであれば、次に求められるのはセンスであるが、センスに関しては悪くないと思う。
で、登場人物に関して史実から一部の設定を借りてきているのであるが、しかし、ここまで史実を捻じ曲げるのであればわざわざ史実を借りてくることもなかったのになあ、という気がする。
史実から離れて自由な展開をするのであれば、どこかでちゃんと史実に戻って来て、「おっ、そんなところでちゃんとそんな風に繋がるのかい」と感心させるような展開を作るべきだと思うのだが、そういうのって釜ゆでのシーンだけだったなあ。
結局、石川五右衛門やら霧隠才蔵やら猿飛佐助やらのキャラを中途半端に拝借しただけ──。
思い切って全く架空の物語にしたほうが潔かったのではないかと思うが、多分一から作り上げる労は取りたくないんだろうなあ。そこまでの根気はない監督であると見た。ダースベーダーやらヨーダやらを創り上げるだけの力はないのだろう。
あるいは、全く架空の話にせずとも、「いつだかどこだか解らない世界で、たまたま戦国時代の武将たちと同じ名前の人間が活躍している不思議な空間」という設定にする手もあったはずだ。見始めた観客が「あれ、これはパラレル・ワールドなのかなあ?」と思ったりするような・・・。
ところが冒頭に「1582年」と出るのである。で、「信長の死後秀吉が天下統一して」みたいなナレーションまで入って、これは如何にも史実ですよというオープニングCGの後、あの格好の侍たちが出てくる──こういう作り方は一体どういう感覚なんだろう? 理解できない。
ま、でも、その後面白いのは面白い。何が面白いって、画が面白い。ひとことで言ってこれはゲームの映像である。そういう面白さである。でも、それだけじゃちと辛いぞ。
CMとかPVなどの他メディア出身の監督は、元来瞬発力が強い。彼らは、CMだったら15秒か30秒、プロモビデオだったら1曲4~5分の間の勝負になるので、瞬間を捉えて非常にインパクトのある綺麗な画を撮ってくるのが得意なのである。
ただ、2時間の映画となると瞬発力だけではどうしようもない。持久力が必要となってくるのである。いや、持久力と言うより、全体を構成する力かな。
それがあるかどうかが市川準や石川寛になれるかどうかの分かれ目なんだよね。しかし、CM出身の監督は上に挙げた2人以外にもたくさん成功者がいるけど、PV出身者では大成した人思いつかないよなあ。
喩えて言えばこの映画は、マラソンレースを見学に来たのに400メートル走を100本見せられたようなもんだ。いくら画が面白くても、それだけで長続きさせるのはしんどい。
この監督は多分、色やら構図やら動きやらが次々にはっきりと頭の中に浮かんでくる人なんだろうと思う。だから画(え)はなかなかに面白い。しかし詞(ことば)はすっからかんである。
ともかく脚本がひどい。これでは学芸会である。描かれている世界はペラペラに薄っぺらい。幼稚この上ない。
そして、台詞で状況を説明してはいけない。この脚本家(=監督)は、1)五右衛門は佐助を待っている、2)佐助がなかなか来ないので五右衛門はいらいらしている、という状況を観客に伝えるためには五右衛門に「まったく佐助の奴は遅いなあ」と語らせる以外の手立てを知らないのである。
これは解りやすい例として挙げたまでだが、もう一事が万事そういう脚本なのである。せっかく綺麗な画を撮りながら、画で伝えるということがまるでできていない。
そして、それだけならまだしも、作者がテーマとして伝えたいことをそのまま登場人物の台詞にしてはいけない。これは全くの興醒めになってしまう。
ともかく行間と言うものが全くない。深みも広がりも余韻も何もない、すっからかんの台本なのである。
この紀里谷和明という監督、この映画では監督・プロデューサー・脚本・原案・撮影監督・編集から出演(明智光秀役)にまで名を連ねて、多分自分のマルチタレントぶりに酔い痴れているのだと思うが、しかし脚本だけは担当すべきでなかった。
一流とは言わなくても、せめて二流の脚本家に任せておけばもっとすばらしい作品になったろうに、それが残念で仕方がない。
台詞も響きの良いものを並べただけで、「強くなれ」とか「自由はどうだった?」とか「みんなが幸せになるには」とか、一生懸命並べ立てれば並べ立てるほど空疎に響くし、それぞれの台詞の繋がりに考えが足りていないので全体としての整合性が取れていない。
人物の描き方も平板そのもので、例えば奥田瑛二が演じた豊臣秀吉なんか、単なる権力亡者の狂人にしか描かれていない。薄っぺらいのなんの・・・(でも、そんな脚本でも中村橋之助とか福田麻由子とか、きっちり良い芝居をしている役者がいるのには驚かされるが・・・)。
そんなことを考えながら帰り路を歩いていたら、ふと思い当った──ひょっとして、この豊臣秀吉像は紀里谷本人を戯画化したものではないのだろうか、と。もし、そうだったらちょっと見なおすなあ。
しかし、問題はこんな薄っぺらい映画を観てもめちゃくちゃ興奮して「面白かった!」を連発している人がきっといる(例えばこの映画のCMでインタビューされてる人、サクラでなければね)ということである。僕の隣に座ってた女子高生なんてハンカチで目頭押えて大泣きしてたもんなあ。
「そんな奴らは映画の見方が解ってない奴らだ!」などと斬り捨てていれば済む問題ではない。日本人の感性は着実に変わってきているのだ。
1年が終わってみたらなんか映画賞を受賞してたなんてこともあるのかもしれない。うん、獲るとしたら差しづめ日本アカデミー賞あたりなんだろうなあ。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。


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