映画『重力ピエロ』
【5月24日特記】 映画『重力ピエロ』を観てきた。
伊坂幸太郎の原作を読んだのは5年近く前。いつものことではあるが、ほとんど何も憶えていない。原作の持つムードとかトーンとかはなんとなく記憶にあるのだが、細かい筋や設定となると読んでないのと同じくらい忘れている。
映画を見ながらいちいち「あれ? こんな話だったっけ」と思う。ところが、誰が放火犯かという一番肝心な、と言うよりむしろ余計なことだけ憶えていて、その分楽しめない(笑)
困ったことである。
しかし、やっぱりこれは原作とはかなり変えてあるような気がする。映画を見終わってからパンフを読んでみたら確かにそうみたい。伊坂幸太郎が書いている:
原作とは異なる部分もあるし、省かれた台詞もある。出てこない人物もいる。原作との差異が気になる人にはやっぱり物足りない部分があるのかもしれない。
しかし、僕のように(自分で書くのも変だが)原作がほとんど思い出せない人はどうなんだろ?
それにしても気になったのは、映画で渡部篤郎が演じた元レイプ犯・葛城。小説にこんな奴出てきたっけ? あるいは出てきたとして、こんなに詳細に描かれてたっけ?
5年前に自分が書いた書評を読み返して確認しようとしたのだが、残念ながら僕は書評にあまりあらすじを書かない。でも、同じ bk1 に掲載されていた他の人の書評を読むと確かに小説の中にも登場して描かれている人物であるらしい。
だから、これが元々の原作からそうなのか、それとも映画化によってそうなったのか分からないのだが、僕が一番気になったのは、この葛城が非常に一面的な描き方をされているところである。
ある意味で「人間は決して一面的な存在ではない」というのがテーマの1つであるこの小説/映画において、単純明快な悪としてここまで一面的に描かれた人物が出てくるのは仕掛けとしてあまり巧くないような気がした。
ただ全体として見るとかっちりと組みたてられていて、原作に対する愛が感じられる映画であった。どれだけ設定が書き換えられても、原作の持つ浮遊感がちゃんと映像の中に再現されていたのがその証拠である。
カメラは時に下から、そして上から、かなりの角度をつけて画を切り取り、そして時々思いっ切り引いてみる。そのメリハリが見事に効いている。
兄・泉水に加瀬亮、弟・春に岡田将生(マサキと読むんですね。マサオだと思ってました)、父に小日向文世(若い頃の自分も若造りして自分で演ったのは少し無理があったけど)、母に鈴木京香、「夏子さん」に吉高由里子というキャストはいずれも適役だし演技も良かったと思う。
何故そう言えるかと言えば、これらの人物が、それぞれ欠点や負い目を持ちながらも、いずれも非常に魅力的であったからである。それだけに、渡部篤郎の葛城というキャラが残念である。
設定の一部を書き換えたことについて、監督の森淳一がインタビューに答えてこう言っている:
ずっと病院に寝ているお父さんがいいのか、海辺のきれいな家にいるお父さんがいいのか。あるいは、会社員でスーツを着ている泉水がいいのか、普段着の泉水がいいのか。それは、どちらがより映像的かということで決めていったんです。
なるほどと思う反面、ちょっとびっくりする。一般的には原作のイメージを画面にどう固定するかに心血を注ぐものだが、この人は画面にどう映るかというところから原作に遡って設定を変えるのである。
でも、逆に言うと、そのやり方でよくここまで原作のトーンを歪めずに映画化できたものだと思う。そういう意味では読解力も表現力もある映像作家であることは間違いない。
原作者の伊坂が、前掲の通りの注釈をつけながらも結局「とてもいい映画だった」と端的に褒めているところからもそのことが窺い知れるのである。
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