『空に唄う』白岩玄(書評)
【4月27日特記】 僕は読んでいないが『野ブタ。をプロデュース』で文藝賞を獲った人である。
文章はあまり巧い人ではないのだろう、と勝手に踏んでいたのだが、読んでみると若さゆえのぎこちなさは微塵もなくて随分とこなれた文章を書く作家である。そして書かれている世界にもチャラチャラした感じは全くない。全ては若い作家に対する僕の偏見でしかなかった。
主人公の海生(かいせい)は寺の跡取り息子である。父は死別している。祖父が住職である。──この作家の生家もまたお寺なのだろうか? でなければ、却々こういう舞台装置は描けない。逆に身近にそういう環境がなかったのであれば、それこそきっちりと取材しないと書けない世界である。
わざわざそういうものを取材してまで書こうとしたのであれば、その初っ端の発想からしてちょっとすごいと思った。そうではなくて単にお寺の生まれだというのであれば、それはそれで、知らず知らずにちゃんと身に付けてきたものがある人なんだろうなあと変に感心してしまう。
さて、その海生が自分と同い年の23歳の女性のお通夜で読経していると、棺の上に死んだはずのその女性・碕沢さんが座っている。びっくりして逃げようとしたら手を掴まれた。どうも自分にしか見えていないらしい。結局逃げ切れずに自分の部屋に通してしまう。
世に言う幽霊のように半透明であったり宙に浮いていたりもしない。生きている人間と同様に実体がある。ただ、体温がない。そして海生の体を除いてはこの世のものを何ひとつ掴むことができない。だから、ドアもふすまも全部海生が開けてやらなければならない。
──そんな風にして始まった死者と生者の奇妙な交流の物語である。冒頭に書いたように、それが落ち着いた文体でしっとりと語られる。
非常に落ち着いて読める。そして、読み進むうちに思うのは、さて、この物語を作者はどのように閉じてくるのだろうか、ということである。が、予想通り、そんなに劇的なことが起こるわけではない。
余韻はしっかりとある。でも、もう少し何かが起こるかと思ったが、やっぱりびっくりするような展開はなかった。
「人生なんてそんなに劇的なことばかり起こらない」と言われればそれは確かにそうなのだが、しかし、冒頭で死んだ人が生き返る(?)設定を作っておきながら、その物言いはないんじゃない?とも思ってしまう。
こういう小説を読んでいると、我々はよくこんな風に言ってしまう──「うーん、良いんだけど、今イチどこか何かが足りないんだよね、この小説」。でも、最後まで読み終わって突然「そうか、この作家は正にそのことを書きたかったのかもしれない」と思った。
彼が書こうとしたのは、正にこの「どこか足りない」というその感じだったのではないだろうか、と。
それを安易に「喪失感」などと総括してしまうのはやめよう。それほど端的なものではないし、逆にそれほど重苦しいものでもない。何よりも、彼が描こうとしたのは、誰かが既にそんな風にして解明してしまったものではない何かのはずだ。
そこにこの作家の何とも言えない独自性を感じてしまうと同時に、妙な親近感さえ湧いてきてしまう。僕にも君にもこういう感じってあるはずだ──何かが足りないんだよね。
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