『ブラザー・サン シスター・ムーン』恩田陸(書評)
【2月23日特記】 僕は恩田陸の作品の中ではとりわけこういう作品が好きだ。あまり何も起こらない話。『黒と茶の幻想』とか『夜のピクニック』とか…。
いや、そう言うと「決して何も起こらない訳ではない」と反論されそうだが、まあ、言うなればストーリーの展開で引っ張って行こうとせず、叙述そのもので引っ張って行ける小説。
そして、それは恩田陸ほどの筆致がなければ決して書けない小説であり、僕はそういう「あまり何も起こらない小説」を書こうとする発想と勇気と力に脱帽するのである。
この小説も何がどうしてどうなるという話ではない。3部構成になっていて、高校時代の同級生である楡崎彩音、戸崎衛、箱崎一のザキザキ・トリオがひとりずつ語る形になっている。
彩音は小説家になっている。衛は大学時代こそ人気ジャズバンドのベーシストだったが、卒業後はあっさりと鉄鋼メーカーに勤める。一は逆にシネマ研究会の末端の部員から大手証券会社に就職し、不動産系の金融会社に転職したのち映画監督になる。
その辺の経緯がゆっくりゆっくり語られて少しずつ少しずつ明かされて行く。特に彩音の第一部は持って回った話の連続で読んでいてまどろっこしくなるほど。でも、それは必要な回り道なのである。
不必要な読み込みなのだけれど、読んでいるとどうしても恩田陸の自伝的な小説であるような気がしてくる。
彩音が小説家になっているということが一番大きな要素なのだけれど、この小説の舞台は固有名詞こそ出てこないがどう見ても早稲田大学と早稲田通りであるし、在学中にジャズをやっていたことや、一旦一般企業に就職したという衛や一の章で語られる設定もまた恩田陸の分身であるように思えてくるのである。
ただ、そういう設定がどれほど恩田陸自身のものであるかには意味はなく、この雰囲気、この心理状態、この心象風景、──それらを産み出したものが恩田陸であるというところに意味があるような気がする。それがどんな意味だかはよく解らない。
ただともかく、ここで語られる、あまり意味や位置づけが明確になっていないエピソードの積み重ねがすごいのである。ぼんやりとしたものがいくつ積み重なっても、そこにくっきりとした像が浮かび上がる訳ではない。でも、確実に質量は増すのである。
そして、何が起こるでもなく、それぞれの部が終わって行き、気がつくと小説自体も終わっている。なんだったんだ、このストーリーは? でも、そこには泥水をかき回したような余韻が残っている。
これはある種いつもの恩田陸の手法である。
しかし、僕にとっては恩田陸の小説で初めて「どうだ、巧いだろう」感の残らない小説だった。
いや、別に恩田陸がいつもいつも「どうだ、巧いだろう」と思いながら小説を書いていると言いたい訳ではない。それは恩田陸の問題ではなく、それを読んでいる僕の感性の問題なのかもしれない。
ただ、いずれにしても、僕は珍しくこの小説では「どうだ、巧いだろう」という感じを受けなかったのである。そして、遂に恩田陸はそういう境地にまで達してしまったのか、と、ことさら溜息をついたのであった。
これは他の誰にも書けない小説であると思う。
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