『野球の国のアリス』北村薫(書評)
【1月8日特記】 文中ほとんどの漢字にルビが振ってある──これはそういう本である。つまり、あまり漢字を知らない年代の(あるいは学力の)子供たちを(も)読者として想定している。
「近頃の若い奴はダメだ」という主張に対して、「そんなことはない」という立場に立って、そのことを証明するために、まずこの小説を読ませようとしている。読んでもらえないと始まらない。だから親切に読み仮名が振ってあるのである。
というような作者の"素"の想いが「はじめに」に書いてある。フィクションの冒頭に添えるにはあまりに素面すぎないかと思えるような書きっぷりである。この部分だけエッセイになってしまっている。
「いつの時代も、人間は人間です。考える力、ものごとの裏にあることを感じる力はそんなに変わらないでしょう。ただ、現代のほうが、おとなが甘くなっている。子供が考える前、感じる前に、答えをさしだしてしまう」(10ページ)などと、この辺りは、総ルビを振ってでも読んでもらおうと思った子供たちにではなく、うっかりその親たちに向かって書いている。
で、その後、子供たちに向きなおって「なんだか、わけがわからない、変わった世界のお話です。直球で勝負して来るような物語ではないかもしれません」(12ページ)と書いて「はじめに」を締めている。
タイトルから明らかなように、これはルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』『鏡の国のアリス』を踏まえている。残念ながら僕は読んでいないのだが、あまりに有名な作品なので、部分的にはいろいろ知っている。
だから、読んでいて、「ああ、この部分はルイス・キャロルのアリスをこんな風にアレンジしたのか」などと気づく部分もある。上記の2作をちゃんと読んでいればもっともっと踏まえたりもじったりしているところが分かって面白いだろうなあと思う。
しかし、北村薫は読者が初めからそんなことまで分かるとはとりあえず期待していない。多分、全部読んだ後「なんか似たようなタイトルの外国小説があるらしいけど、関係あるのかな?」と気づいた読者だけが「≪はてな?≫と思って、調べて」(11ページ)くれたらそれで良いと考えているのである。
とりあえずはこんな話である:野球少女のアリスがある日、時計屋の壁にかかっていた大きな鏡を抜けて「向こう側の世界」に行ってしまう。そこでは自分の知っている人たちが「こちら側」と非常によく似ているけど微妙にずれている環境で暮らしている。
基本的に右と左が逆で裏返しの世界なのだが、野球においても負けたチームが残って一番弱いチームを決めるトーナメントがあったりする。選手にとってそんな野球は重荷でしかない。アリスと新聞記者の宇佐木さんが協力して、そんな野球を変えようとする──そんなお話である。
北村薫という作家は『スキップ』『ターン』『リセット』の3部作を見ても判るように、過ぎ去って行く時間というものに対する哀惜の念と言うか、成長したり老いたりして行く人間に対する愛おしさと言うか、そういうものを書かせると非常に巧い作家である。ここでもそのトーンは全面展開されている。
そして、この小説は何よりも「野球小説」である。野球に材を得た青春小説などではない。例えば米国で言えばW・P・キンセラの一連の作品や、フィリップ・ロスの『素晴らしいアメリカ野球』、文春文庫の『12人の指名打者』に収められた12編の短編小説などと並べても不相応ではないような、野球に対する愛が溢れた小説である。
そして、同時にこれは読者に対する愛が溢れた小説でもある。
野球が好きなら是非読んでみれば良いと思う。胸があったかくなる小説だよ。
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