『幻影の書』ポール・オースター(書評)
【1月27日特記】 読み始めてすぐの時点での感想は、オースターはここ何作かで昔みたいな夢のような描写を失ってしまったのではないか、ということだった。
「夢のような」というのは「素晴らしい」という意味ではない。
夢の中に出てくるような、個々の人間の姿はくっきりと見えているのに背景が何も描かれず空白になっているような、あるいはそれとは逆に、背景は細部に至るまで細かく描かれているのにそこにいる人間たちは目鼻さえはっきりしないような、別の喩えをするならば、ある種漫画の手法のような描き方である。
初期の作品と違って、ここ2~3作ではそういう印象を受けることがとても少なくなってしまったような気がする。
にべもない表現をすると、オースターは「ファンタジーよりもリアリズムのほうに傾いてしまった」のではないか、という懸念である。でも、読んでいるうちにそんな手法の違いなんてどうでも良くなってしまった。
最愛の妻と子供たちを飛行機事故で亡くした大学教授のデイヴィッド・ジンマー(小説は彼の一人称で語られる)は死んだも同然の暮らしを送っていたが、ある日たまたまTVで見た無声映画に魅かれ、その監督でありコメディアンであり、ある日突然失踪してしまったヘクター・マンの遺作を順に追うようになる。
そして、それは1冊の研究書となって世に出るのだが、その本を書くうちに彼の疲弊した心も次第に平静を取り戻して行く。
そんな折にヘクター・マン夫人だと名乗る人物から手紙が届き、ヘクターが会いたがっているので来てほしいと言う。
もちろん俄かにそんなことを信じる気にもならずぐずぐずしていると、今度は拳銃を持った女が無理やりにでも彼を連れ出す気でやって来た──前半はそんな話だ。ストーリーはヘクターの妻から手紙が届くところから書き起こされている。
そして、そこから先はさながらミステリ小説だ。その先がどうなるのか知りたくてどんどん引き込まれて行く。この辺はいつも通りのストーリー・テラーぶりとも言えるのだが、いや、この作品ではワンランク上がったような気がする。
そして、もうひとつ驚くべき点は、小説の中で細かく描き出されるヘクター作の映画である。訳者・柴田元幸のあとがきに「映画を細部まで詳しく語るときの筆の冴えっぷりは、映画作りの現場に身を置いてきた体験がもっとも実りある形で活かされた結果にほかならない」とあるのを読んで、ああ、そうか、そうだった、彼は映画の脚本や監督まで手掛けたのだと思い出した。
映像作品を文章で語ることの難しさを易々と超えている(読んでいてカット割りさえ浮かんでくる)だけではなく、その作中作で語られる映画のストーリーや設定が、時々登場人物の性格や行動や、あるいは偶然の出来事とシンクロしてくる辺りがものすごく面白い。
ともかくこんなに巧い作家だったかな、オースターって、というのが最後まで読み終えて一番強く思ったことだ。
いや、前から確かに設定も筋運びも巧い作家ではあった。だが、構成においてここまでの力量を感じさせる作品は今までなかったのではないだろうか。
ストーリーが大方収束したなと思ったところからまだ20~30ページ残っていると気づいたとき、ああ、ここからジンマーにとって何か良くないことが起こるのではないか、と胸がザワザワしてきた。その予感が当たったかどうかはここには書かない。自分で読んでほしい。
いつも深い読後感があるオースターだが、ここ何作かの中では特に深い気がする。
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