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Sunday, December 28, 2008

TBS『流星の絆』(最終回まで見終わって)

【12月28日追記】 録画しておいたTBS『流星の絆』の最終回を漸く観ました。いやあ、最後に来て全くの茶番になってしまいましたね(T_T)

僕は全回を見通して、総体としてはこのドラマを変わらず高く評価しています(どこをどう評価しているかについては、ドラマが始まってからまだ日が浅かった10月27日に書いた記事に詳細があります)。でも、最後の収束の仕方はやっぱりちょっと残念。

ドラマでも小説でもそうなんですけど、こういう推理もの(という雑駁なまとめ方をしてしまって申し訳ないですが)って、それまで丁寧にしっかりと人物を描いて来ながら、最後になると突然、人物を描くことより辻褄を合せることのほうに重点が置かれてしまい、ドラマがドラマでなくなってしまうところがしんどいんですよね。

しかも、当たり前かもしれませんが、真犯人は登場人物の中にいなければならないのです。

実際の犯罪捜査の現場では今まで全くノーマークだった人間が真犯人だったなんてことはザラにあるはずですが、だからと言って小説の終盤やドラマの最終回で「実は真犯人は今まで全く登場していない人物でした」と言う訳には行きません。

ところが、今回の『流星の絆』でもそうなんですが、(来年4月発売のDVD で初めて見る人もいるだろうから名前は伏せますが)真犯人だった人はとてもじゃないけど、天地がひっくり返ってもそんな行動に出る人には見えないんですよね。

この辺をすっきりさせるためには、凡そ殺人をしそうもなく描かれていた人が実は殺人犯だったとするのではなく、最初からその人物を描くときに「ひょっとしたら危ない面を持っている人かも」という含みを持たせておくのが一番なんですが、これをやりすぎると途中で真犯人が判ってしまい、命取りになってしまいます。

だから、何があっても人殺しなんかしそうもない人が実は・・・、という形にならざるを得ないのですが、そこに僕は蟠りを覚えるのです。

多くの作者はそんなことよりも、犯罪の動機は何で、犯行の手口はどうで、どうしてそれが今まで露見せずに済んだのか、といったことの"からくり"を成立させるのに手一杯のまま、作品を発表してしまうのです。

本当は、人物を点で捉えるのではなく、こういう人物がこういう事情でこんな風に変わって来たというように線を描き、この人物が社会の中ではこういう位置や立場にあるという風に面の中の点として捉えることが必要となってくるのです。

そういう風にすれば、人物を描く上で断裂が生まれずに済むのですが、一方で謎解きを考えながら他方でそんなことを巧くやりおおせるためには松本清張並みのの能力が必要となってきます。勢い、そういう人はそんなにいないから、必然そういう作品はあまりない、ということなんでしょうか?

僕なんかは本を読む時もドラマを見る時も「誰が犯人なのか?」と推理したりしない(推理したりしないのに判ってしまったということはあるけど、それは別)タイプなので、だからこそクレイグ・ライスなんかが好きなんでしょうね。

彼女は最後の謎解き・辻褄合わせが穴だらけであっても一向に構わなくて、ただ小男の弁護士マローンとジェイク&ヘレン・ジャスタス夫妻のドタバタを面白おかしく書ければそれで満足と思っているのではないかと思われるフシがあります。

そういうドタバタを描くために犯罪の枠組みを借りてきてるだけみたいな感じがして、でも、毎回この3人の個性豊かな絡み合いが抱腹絶倒で、そこに僕は魅かれるのです。

でも世の中には人物が巧く描かれているかどうかよりも、謎解きやからくりの面白さや独創性を重んずる読者がたくさんいるのでしょう。だから、こういう手法が罷り通ってしまうのも仕方がないんでしょうね。

人物を描く上での整合性を守るには、結局のところ刑事コロンボ張りの倒叙法(犯罪の場面から描くので最初から犯人が誰なのか判っている)が一番良いのでしょう。

これなら、今回の『流星の絆』の真犯人のように、「何がどうなったってそんなことで人を2人も殺すような人ではない」人が実は真犯人だったというような不細工な展開にはならないで済むのです。

しかし、2時間の単発番組ならいざ知らず、これをTVの連続ドラマでやるのは却々勇気のいるところでしょう。

何故ならこれを初回でやってしまうと2回目以降の視聴率が下がるに決まっているから、ではなくて、2回目以降の視聴率が下がると「初回で種明かしなんかするからだ」と言われるに決まっているからです。

さて、それはそれとして、前の記事にも書いた通り、最終回まで見終えた段階でも、やはりこのドラマはレベルが高かったと思います。

自首して罪の償いをするあたりはなんか薬臭くて嫌ですけどね。でも、昨今はドラマでさえ「悪を肯定するのか」なんて抗議を受けてしまう時代ですからね。

宮藤官九郎の脚本もよく出来てました。あちこちでふざけながらメリハリをつけながら筋を進めるやり方に抵抗を覚えた視聴者もいたでしょうが、最終回で「お前には生きてもらう。自分だけ死のうなんて都合が良すぎる」という台詞が飛び出す辺りがクドカン独特のメッセージ性なのでしょう。

役者については、今回は僕が普段から尊敬してやまない三浦友和よりも、戸田恵梨香の演技のほうが目立っていました。巧くなりましたね。そして、魅力的になりました。

ジャガリコのCMやってた頃と比べると、そりゃ巧くなってても不思議はないですが、『DEATH NOTE』と比べても長足の進歩だと思います。

僕としては『闘茶 Tea Fight』の際にその片鱗を感じ取っていたつもりではいたのですが、いやあ、ここまで良くなっているとは驚きでした。この娘は多分もっと伸びるでしょう。今後に期待したいと思います。

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