『日本語が亡びるとき』水村美苗(書評)
【12月27日特記】 日本語ブームに乗ってその延長上でもうちょっと高尚な本でも読んでみるか──そんな調子でこの本を手に取った人は苦い思いをするだろう。これはそういう本ではない。読者に向けてのエンタテインメントの要素はどこにもない。
冒頭で謎を投げかけておいてそれを小出しに解いて行くとか、とりあえず何かキャッチーなフレーズでガサッと読者の心を鷲掴みにしてから書き進めるとか、著者にそんな気はさらさらないのである。唯一惹句と言えるのは「日本語が亡びる」というそのタイトルくらいのものである。
だから、最初は読んでいてもちっとも面白くない。著者は読者にサービスする気などなく、独自の日本語論を展開するに先だって必要となる前提を、帰国子女として、あるいは作家としての自己の経験から書き起こして、丁寧に丁寧に洗って行く。
この本の土台となる部分であるから、きわめて丁寧に、必然的にゆっくりゆっくり前提や背景や事実関係が洗い出される。言葉というものに強い興味を抱いている読者なら別に退屈で読めないようなことはないだろう。だが、それほど発見も驚きもないことが長々と書いてある。
だから、読むのを投げだすほどではないが、かといって面白くもないのである。もしもそれが言葉自体にはそれほど興味のない読者であったなら多分早くも二章で読むのをやめるだろう。
三章までそんな感じで世界(の言語)と日本(語)の歴史と現状がどんどん掘り下げられて行き、四章から漱石や福翁などが引き合いに出されるに至って、知らないうちに読んでいるのが面白くなってきたと思ったら、五章で『三四郎』が取り上げられるや俄かに圧倒的な面白さになる。これは確かに漱石を引き合いに出した日本語論ではあるが、これ自体が独立した夏目漱石論であると言っても充分通用する。
六章以降は再び言葉の世界史に戻り、アリストテレスから明治維新、インターネットまで時代を行きつ戻りつしながら、いよいよ論は核心に触れてくる。
英語が<普遍語>として幅を利かせる時代を迎えて、政府は英語教育に力を入れるべきだというのは誤りである。今こそ日本語教育に力を入れ、国民に<読まれるべき言葉>を教えなければならない。──そんな風に下手にまとめてしまうと、この本が言っていることの本質は見事に失われてしまう。
この著者の卓越した視点を知るためには、あくまで著者の敷いたレールの上をひとつずつ検証しながら歩む必要があるのである。そうやって文意を追ってくると、初めて著者が「日本語が亡びる」と書いた意味が解ってくる。
──これはこの本を売らんがためのキャッチーなタイトルなどではなかったのである。これは著者の危機感に他ならなかったのである。飢餓感でさえあるのかもしれない。
この本はどれだけ理解されるのだろう? 今の日本人がこれを読んでも、その面白さが解らないばかりではなく、書いてあることの意味が読み取れない人も少なくないのではないかという気がする。
僕が思うに、「英語の世紀」が永遠に続きそうな時代に突入した今、必要なことはまず水村が言うように日本語に関して正しい教育をすることではない。多くの日本人がまず身につけるべきなのは、この水村のような論理的思考力なのではないかと思う。
米国で古い日本の小説を読みながら少女時代を過ごしたという著者が日本語の魅力を語り、日本人と日本語のあるべき姿を説いた本ではあるが、その論を進める上で裏打ちとなっているのは紛れもなく近代西洋の論理性でなのある。
伝統的な日本語の素晴らしさを知り、英語の洪水の中で日本語が亡びてしまうのを防ごうと腐心している──その著者が則って論を進めるのは近代西洋の考え方なのである。
著者自身はそのことに気づいているのだろうか? 僕にはぐるりと廻ったその構造が一番面白かった。
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