追悼:遠藤実
【12月11日特記】 僕は普段はめったに演歌なんか聴かないが、さりとて演歌に抵抗感がある訳ではない。
なんと言っても昭和40年代の、TVの歌謡番組の全盛時代に少年期を過ごした世代である。ある意味、演歌もまた(つまり、ポップスやロック、フォークと同様に)しっかりと身にしみついている。
そういう人間からしてみると、10月6日に亡くなった遠藤実という作曲家はやっぱり飛び抜けた才能であった。昨夜、母の家で追悼番組を(途中から途中まで)見ながら改めてそんな風に思った。
この人は自分の体の中にメロディがある人だと思う。ポップス系で言えば浜口庫之助と通じるものがある。作曲もおそらく鼻歌でやっていたのではないだろうか。
体から自然に湧き出てきた音の流れが作品であり、一旦体外に流れ出したものを記録してみると、ほとんど手直しする必要がない──そんなタイプの作曲家だったのではないかと思う。
例えば『からたち日記』の変拍子にしても、「よし、この辺でリズムに変化つけてみるか」てな感じでやってみたのではなく、口をついて出てきたメロディが、なんとなく雰囲気で変拍子になっていて、楽譜に起こしてみると「あら、拍子が変わってるわ」という感じだったのではないかなと想像する。
僕はもう20年くらい前から演歌はもう駄目だと思っている。それは同じような曲ばかりになっているからだ。演歌の作曲家たちはどうしてこんなに不勉強なのかと心ひそかに憤っていたのである。
そういう意味では遠藤実も決して革新的な作曲家ではない。決して新味のある曲を書き続けた人ではなく、むしろ逆に明確な"遠藤節"とでも言うべきものを持っていて、次から次へとそれを展開して行った人だ。
でも、だからと言って、決して同じような曲ばかり書いていた人ではない。それぞれの作品がそれぞれ秀逸なメロディラインを持っていて、1曲1曲が際立っていたと思う。
僕はあまり精神主義を礼賛したりするのは好きではないのだが、それでも「心のこもった曲を書く人」という表現がこれほど当たっていた作曲家もなかったのではないかと思う。
藤島桓夫の『お月さん今晩わ』、島倉千代子の『からたち日記』、小林旭の『ついてくるかい』『純子』、千昌夫の『星影のワルツ』『北国の春』、渡哲也の『くちなしの花』、牧村三枝子の『みちづれ』、三船和子の『他人船』などと時代を超えて枚挙に暇がないが、これらに加えて山本リンダの『こまっちゃうナ』もまた彼の作品だと聞くと、その懐に深さに感心するしかない。
現在680曲入っている僕の携帯音楽プレイヤには演歌はほんの数曲しか入っていないが、そのうちの1曲が遠藤実の作品『中学三年生』である。
そう森昌子の『せんせい』『同級生』『中学三年生』というデビュー以来の3部作もまた彼の作品であった。
こういう卓越した作曲家が後に続かない限り、やっぱり演歌は確実に亡びて行くのだと思う。遠藤先生も草葉の陰で泣いておられるのではないだろうか。
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