映画『K-20 怪人二十面相・伝』1
【12月21日特記】 映画『K-20 怪人二十面相・伝』を観てきた。
映画を観に行く前に監督の佐藤嗣麻子の名前を検索したら脚本家としての記事しか目に入らなかったので、予告編を見る限り、脚本家出身の、しかも女性監督のデビュー作としてはおよそ「らしくない」映画だなあと思ったのだが、冒頭で ROBOT の企画・制作と知ってなるほどと思った。脚本・VFX協力で山崎貴の名前もクレジットされている。
パンフを読んで、佐藤嗣麻子はこれが監督デビューではなく、また当初から監督と脚本を兼ねて来た人だということも判った。特撮に志向性があるのかどうかは知らないが、いずれにしても如何にも ROBOT らしい抜擢である。ちなみに VFX を担当したのは白組である。
ところで僕は別に女性監督に惹かれてこの映画を見に行った訳ではない。金城武や松たか子のファンでもない。僕が見ようと思ったのは北村想の作品だったからだ。
1980年代に『寿歌』や『寿歌・Ⅱ』を加藤健一事務所をはじめいろんな劇団で観た。この『怪人二十面相・伝』は読んでいないのだが、北村想が怪人二十面相を書いたらきっととても深いドラマができるのではないだろうかという予感があって見に行ったのだが、その予感は実際見事に的中した。
映画化するにあたって、原作からは設定を借りた程度でかなり自由に作り上げたようだが、この世界観は多分原作から引きずったものなのだろうと勝手に想像している。土台がとてもしっかりしているのである。
舞台は昭和24年の日本、ではなく第2次世界大戦が起こらなかった別の世界の帝都。不必要にも思えるこの設定がその後の展開を自由にしており、現実感に乏しく思われても仕方のないような途方もないストーリーをけれん味なく面白おかしく描いている。
しかし、現代の日本/東京とは別の時代、別の世界であると言いながら、それは現代の日本にも当てはまるんじゃないかと(脚本は決して明示的にそんな主張はしていないのに)思わせるような暗示と言うか、含意と言うか、なんかそんなものを感じさせる。
ひとことで言うと、それは生きて行く上での閉塞感である。
単なる探偵アクションものだと思って子供連れで観に来ているお客さんが少なくなかったけど、気の毒だがこの映画は子供たちには理解できないだろう。格差社会、不安、閉塞感、僻み、独善、そして逆に半ば投げやりな明るさと自由さ──そういうものの混合が丹念に裏面に縫い込まれているところがこの映画の魅力だと僕は思う。
これが多分今年最後の映画になるんじゃないかなと思うのだが、押し詰まってから大変良い作品に巡り合えた。
残念ながらあらすじは書けない。どんでん返しもあるのでネタバレは許されない。何も知らずに見るほうが断然面白いはず。コメディと推理とアクションとを配合良く織り混ぜて、大変上手に練られたストーリーである。
以下に最初の配役だけ示しておく。
鹿賀丈史が本物の怪人二十面相で、仲村トオルが名探偵・明智小五郎、本多奏多が小林少年、益岡徹が浪越警部、金城武が二十面相によって囮用の偽・二十面相に仕立て上げられてしまったサーカス団員・遠藤平吉、國村隼がサーカス団のからくり係で後々も平吉の相棒となる源治、松たかこが明智の婚約者で華族の天然キャラ娘。あと、この人が出てくると僕は無性に嬉しくなるのだが、神戸浩が久しぶりに台詞の多い役で出ていた。
それぞれがそれぞれに好演していて、そのことによってこの映画が単なるアクションやCGものに終始せずに済んでいる(もちろんアクションやCGも、そりゃもう凄いのだけれど)。
架空の設定が現代を描いた佳作だと思う。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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