映画『コドモのコドモ』
【11月2日特記】 映画『コドモのコドモ』を観てきた。
コドモがコドモを出産する話である。原作はさそうあきらの漫画だそうな。そして、荻生田宏治監督の前作『神童』もこの人の原作だったとのこと。あれも良い映画だったけど、随分色合いが違うね。
原作は川崎あたりの都市郊外を想定していたらしいが、映画では秋田県能代市でのロケになった。このロケ地を選んだことが大成功だと思う。ポイントは雪と、閑散とした風景。
ただし、パンフを読むとロケ地が決まるまでには紆余曲折があったらしい。それは「11歳の少女が出産するなんて、けしからん!」という拒否感。ドタキャンもあったらしい。
しかし、この映画はまさにそういう固定観念から飛び立つ材料なのである。図式的な考え方から解き放たれる契機なのである。
さて、いくら忙しいったって臨月近くになっても娘の妊娠に気づかない親がいるか?とか、一度も医者の診察を受けることなく無事に出産にこぎつけられるんだろうか?とか、子供たちだけで何の設備もないところであんな風に出産をやり遂げられるんだろうか?とか、そういう疑問が湧いてくるのはまあ分からないでもない。
が、ともかくそういう疑問は少し置いといてストーリーにのめり込んでみるだけの意味はあると思う。娘の妊娠に気づかない親ということについても、18歳ならともかくまさか11歳では妊娠ということについての想像力が働かないだろうとも言える。
そしてこの映画は、
- 子供の妊娠にも気づかない馬鹿な親 vs 自分たちで全てをやり遂げた逞しい子どもたち
- 自分を押しつけるだけの馬鹿な教師 vs 自分たちで自律的に主人公(とお腹の中の子供)を守り通した子供たち
- PTA総会で「これは紛れもない非行だ。どう責任を取るのか」と糾弾する馬鹿な保護者たち vs 堕すなんて思いも寄らず赤ちゃんができたから産むという単純明快な主人公・春菜
というような対立構造として見るべき映画でもないのは言うまでもない。重ねて書くけど、そういう対比/対立の構造から抜け出すヒントが込められた映画なのだと、僕は感じたのである。
映画を見ていると僕らは次第にそういう図式的な発想から抜け出して来られるのである。ここに出てくる子供たちはまさにそういう図式から自由な発想をしている。そして、僕らはそれにつられる。そこがこの映画のミソである。
脚本は荻生田宏治監督と『リンダ リンダ リンダ』の宮下和雅子の共同。多分この映画には絶対女性の書き手が必要だったはずだ。それが、ほぼ最高の形で機能したのではないだろうか。ひとことで言って、とても良い脚本なのである。
パンフで渡辺祥子が書いているように「少女の妊娠への焦点の絞り込みは巧みで、春菜の不安も丁寧に表現され(中略)人間ドラマとしても面白い」。「あくまでもファンタジーには違いないが、ここにはただの絵空事にはならない細やかな心づかいがある」。
そして、冒頭にも書いたように、そのドラマの舞台として選ばれた東北の風景が見事に溶け合って、とっても美しい映画になっているのである。
そして、主人公・春菜を演じた甘利はるなを始めとする子どもたちの表情が本当に活き活きとしていて、これはひょっとしてドキュメンタリなのではないかという気がしてくるくらいの、全く演技っぽくないリアリティがある。見事なものである。
そう言えば『帰郷』、『神童』、『コドモのコドモ』と3本並べてみると、この監督が如何に子供を撮るのが巧い監督かが判る。
担任教師役の麻生久美子、春菜の祖母役の草村礼子も非常に良かった。上野樹里のスナックのシーンだけが、僕にはちょっと意味不明だったが。
良質の映画である。
★この記事は以下のブログからTBさせていただきました。
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