書いたものは残る。検索すれば出てくる。
【11月27日特記】 先日いきなり「今ジェイク・シマブクロがTVに出てるよ」という電話をくれた人がいて、大いに驚いた。多分、HPに書いたこの記事を読んでくれたのだろう。
確かに僕はジェイク・シマブクロに触発されてウクレレを始めた。立て続けに彼のアルバムを2枚買ったのも事実だ。ただ、その後、僕の心は少し彼から離れて行った。めちゃくちゃ巧いし、カッコ良いということに今もって異存はないのだが、なんかウクレレの持つ楽しさが感じられない気がして、最近はむしろトラディショナルなハワイアンを聴くことのほうが多くなっているのである。
そういうことについても、僕は自分のHPやブログで何度か書いてきたような気がする。ただ、電話をしてきてくれた彼は、僕の最初のジェイク礼賛の記事だけ読んで、その後の心境の変化の記事は読んでくれていないのである。
もちろん、僕も自分の書いたものを隈なく読んでくれている読者がこの世の中にいるなどとは思っていない。僕の書いたものなど(読者が僕の知人であろうとなかろうと)たいていは読まれないのである。
だから、彼がその後の記事を読んでくれていないことを不満に思ったのではない。逆に、僕がもう随分前に書いた記事を彼が読んで、それをずっと記憶してくれていたことに驚いたのである。自分自身、その記事を読み直して、あ、この頃はこんな風に感じていたんだと再確認したくらいである。
僕自身は次の記事をネットに上げることによって、ジェイクに血道を上げていた頃の自分は消し去ったような気でいたのだが、前の記事だけ読んだ人にとってはそういう訳ではなかったのである。現に僕がジェイクに憧れてウクレレを買った記事はいつまでも僕のHPに残っている。
論点はちょっと違ってしまうのだが、こういうことって Web 社会の特徴だなあと思う。つまり、書いたものは残るのである。
Web 以前の社会では、喋ったものは当然消えて行く。出版したものは、形の上では残っているのだが、現実には数多くの出版物の中に埋もれて発見するのは困難になる。映像はあちこちで私蔵されてきたが、それを共有する術がなかった。
現代の世の中では、(作成者が削除しない限り)書いたものは全てそのまま Web に残っている。もちろん、他の多くのコンテンツに埋もれてしまうのだが、検索によって再度見出され、場合によっては大勢の人間に共有されるのである。ここがミソである。
私の書いたものなんて読まれはしない──そう、それはその通り。わざわざあんたの書いたものを読もうなんて物好きは世の中にほとんどいない。だが、一旦書いてネットに上げたものはいつまでも残っているし、検索すれば出てくるのである。
そのことを知らずに迂闊に書いてしまった人たちが、時々「炎上」の憂き目に遭ったりするのである。僕の意識はひょんなことから大きな問題に行き当たった。
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